「言葉」とは、ものごとを特定し、区別するという特性があるような気がします。そもそも誰かに何かを伝えるために言葉は出来たのでしょうから、誤解を避けるために特定し区別するのは自然な流れだと思います。
言葉は文化と密接に関係があり、村社会で顔見知りと阿吽の呼吸で暮らしてきた日本では「自分の内向性」を表すための言葉が豊富で、様々な君主に仕え多様な国々と共に暮らしてきた中国では「他者との外向性」を表す言葉が豊富です。たとえば日本語は「かゆい」と「くすぐったい」を区別しますが、中国語は両者を「痒(ヤン)」の一言で示します。
逆に日本では「三日(みっか)」という言葉で日付を表す「四月の三日」という意味と、期間を表す「三日間」というふたつの意味を表現しますが、中国語では日付は「三日(サンリー)」、期間は「三天(サンティェン)」と区別します。文化によって方向性の違いはありますが、やはり言葉は物事を特定し区別するという方向性は変わりない。
しかし、人間の気持ちや自然の有り様はそうたやすく区別できるものでもなかったりします。うれしさと不安が入り交じった気持ちや、つらさとやりがいが合わさったような気持ちなど、もうこの時点でうまく言葉に出来ていませんが、そういうものは多々あります。表現力の問題ももちろんありますが、そもそもたった50数文字ですべての物事や気持ちを表現できるはずがなく、言葉は様々な表現方法の一つという事なのかもしれません。要は、伝えること、伝わることが大切。
著者近影(なんともいえない微妙な写真)

(城東のおっさん)














