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考えごと アーカイブ

器量。


何年か前、
背伸びして取りに行っても、
なかなか得ることの
出来なかった仕事。

そういった仕事に、
最近、何気なく携わらせて
もらっていることが
多い気がしています。

あの頃、
「良い提案のはずなのに、
なんでわからないんだ」と
クライアントのせいにしていた
自分がいました。

クライアントの現状を
すべて把握しているわけでもなく、
向かうべき方向を知っているわけでもない。
クライアントと何も共有していなかった自分を、
なんて愚かだったのだろうと思い返します。

仕事にとっての幸せが、
最もふさわしい人に
担当されることだとすれば。
今やっている仕事に対して、
すこしでもそうなれるように、
ますます頑張らなければと思う年末です。

今年もあと2週間。
ラストスパート!
ではなく、
じっくり大切に今年の仕事を
ひとつずつ終えていきたい。

(とら)

共作。


私たちがモノをつくる際に、
大事にしている要素のひとつとして、
「いっしょにつくる」があります。

それが、直接のクライアントではなく、
広告代理店を通していただいた
オファーでも、同様です。

クライアントと
広告代理店の営業の方と、
いっしょにつくる。

だから、
弊社に仕事を依頼してくだっている
営業の方々の多くは、
「自分が先頭に立ってやっている」意識が
強い場合が多いです。
クライアントの進むべき場所や、
ポジショニングを把握し、
今回の仕事を見つめながら、
私たちと向き合ってくれます。

「いいようにやっといて」
というような、いわゆる丸投げをされる方は
あまりいらっしゃらないように思います。

先日のとある仕事でも、
そんな営業マンと共作でモノをつくりました。
企画の趣旨と効果を明瞭にクライアントに伝え、
先頭に立って企画を実現。

彼なくしては
できなかった仕事を
完成させてくれました。

共作できるパートナーの方々に
恵まれていることを
本当に嬉しく思います。

(とら)

教程。

あたりまえに誰かから
教わることができる
仕事環境にいると、
ついつい忘れます。

誰かに教わることのできる仕事場が、
どれだけ貴重かということ。

お金をもらいながら学べることは
もちろんですが、
少人数の仕事場で
誰かに教わることができるのは
もっと大きな価値を持つと考えます。

それは、教える人は教わる人に
もっとも相応しい道のりを用意する
ということです。

いわゆる、
その人だけの
オーダーメイドの成長法。

無駄からも
失敗からも
確かに学ぶことは多いけれど、
教えることが上手な人は
それを含めた道のりを用意します。

だから、
教える側は悩む。
下手すると、
仕事についてより悩む。

現在弊社にも
研修社員が若干名います。
ADに指示されている姿を見ながら、
ぜひ教えるエネルギーよりも大きな
教わるエネルギーを出してほしいと
思います。

(とら)

営業。

昨日は、
あるクライアントから
ご紹介いただいた方のところへ。

弊社は、
あらゆるメッセージ制作の
起点となるブレーンは揃えていますが、
「営業」という肩書きを名刺に書いたメンバーは
在籍していません。

だから、
それぞれのメンバーが
営業的役割をこなしてはいます。

しかし最も優秀な営業マンは、
誰かと言うと、社内にはおりません。
じゃあ外部か、というとそうでもない。
私たちが思う最も優秀な営業マンは
当然ですが、自分たちが行った「仕事」そのもの。

といっても、
それは制作物としてできあがったものだけを
指すのではないと思います。

信頼をいただいたクライアントとともに
コミュニケーションづくりを行い、
要求に応えること。その過程を含めた結果。

そこで得た信頼以上に、
弊社にとって力強い営業マンは
多分いないと思っています。

大変なようにも聞こえますが、
クライアントとの信頼関係が生んだ
新たな信頼は、私たちにとっては、
「ご褒美にご褒美がついてくる。」
そんな感じ。

まったく素敵な仕事です。

(とら)

身丈。

お店などに行くと、
広告と剥離した状況と
たまに出会う。

制作者の思いの
一人走りだけが目立って
なんだかとてもちぐはぐ。

広告ブランディングは、
本来持ち合わせていない魅力を、
無理矢理くっつけることじゃないと思う。

情報整理と、
それによって生まれたアイデアで
その企業や商品の
本来持ち得る魅力を
最大限に引き出すことだと思う。

だから、
丁寧に手順を追って
ブランディングされた広告は、
お店や企業の表情やふるまいと一体。

とても自然な流れで
人を引き寄せ、顧客を創り出す。

人も、企業も、商品も、
自分以上の歌は歌えない。

(とら)

肌論。

ちょっと前に、
企画書作りで
頻繁に陥っていた罠。

理論をスムーズに繋いでいくのが
あまりにも気持ちよい時。
ついつい右脳で検証せずに
コンセプト開発まで行ってしまう失敗。

理論的には正しい考えや構成でも、
右脳的に考えると、
「ありゃりゃん」ということはよくある。

右脳的というよりも肌感。

その立場になって、
言葉やルールを眺めてみて、
つまり、自分の肌で感じてみる。
もし、違和感を覚えたら、それはきっと空論。

理論と肌論の両輪が
一つになって動いてこそ、
企画は欲する結果に向かって
ビューンと走り出すのだと思う。

(とら)

多義。

先週末は、
1日のあいだに、
2種類の人と打合せを行った。

表現に対して
執着する人と、展開する人。

執着する人は、
ひとつの答えを持っているが、
そこから動くのを拒む場合が多い。

ワンメッセージを発信するのには
いろんな表現があるはずなのに、
「これ」と決めたらそこから動かない。

コンセプトや基本軸を守るのは大切だけれど、
表現の幅を狭めてしまうことは、
ものづくりをしている人間としては危険。

対して、
展開する人は、
ひとつの答えも持ちつつ、
周囲の声を取り入れながら、
どんどん新しい表現を想像する。

こういう人との対話は、
時に、求めていた課題についての
ブレストの域を飛び出し、
新しい展開を生むことすらある。
そして、楽しい。

自分の中に答えを持つことはだいじ。
自分の外から新しい答えを引き出すことはもっとだいじ。

ひとりの人間の持つ世界は、そんなに広くない(と思う)。

(とら)

柱石。

本質を見つめている
クライアントとの仕事は、
スムーズに解決へ向かう。

目先のことにとらわれず、
かつ、目先のことも大事にしているから、
いま必要な行動が何かを的確に話し合える。

それはきっと、
全体が見えているから。

トップの人間か、いち担当者かであるかは、
さほど問題ではないと思う。
いち担当者でも、
会社のためにどう動くかを理解している人は、
会社が俯瞰で見えているから。

物事は、必ずつながっている。
一部は一部のみでは成り立たない。

だから、担当者いわゆるキーマン次第で
仕事の成果は大きく左右される。
極端に言えば、それが全てかもしれない。

そういう意味では、
真空ラボは恵まれている仕事が多い。
効果が出ている多々の案件。
弊社は、隠された真意を聞き出し、くみ取り、
お力添えをしているだけ。

しかし、窓の外が不安。
こちらの本質解決は、
目眩がするくらい遠大。
誰かのイニシアチブを、
誰かはちゃんとくみ取ってくれるのだろうか。
とりあえず、昼過ぎ頃には弱まるらしいけれど。

(とら)

誰何。

昨日、ふと思い出しました。

僕が駆け出しの頃、
仕事を発注してくれていた方が、
よく使っていた言葉。

「聞いても何も出てこないんですよ。」

これは、その発注者に
発注してくれた仕事について、
いろいろと質問した際の返答。

広告表現をこしらえるのに
必要な情報を尋ねると、
対象や商品情報以外については、
当たり前にこの返事でした。

それでも、当時は、
持ち得る情報の中で
広告制作を行っていたんですね。

今思えば、
恐ろしくてしょうがない。
「出てこないならしょうがないですね」と
言っていた自分が、「あり得ない」。

現在は、
確かな情報を引き出してきてくれる方が不在の場合、
クライアントと直接会うことは
仕事を承るための大きな条件としています。

クライアントから
重要な情報が出てこないのは、
質問を投げかけているほうに100%問題がある。
どんな情報にも、
絶対聞き出す方法(質問の内容)がある。

そう思えるようになった現状へ
導いてくれた恩師やクライアントに、
今、感謝するばかりです。

(とら)

対価。

マージン。
いわゆる中間手数料。

それだけ聞くと、
あまり良い印象がない。
なぜでしょうか。

それはきっと、
何もせずに利益を得る、
ピンハネという言葉に近い
印象があるからかもしれません。

しかし、本来、
マージンは、リスクヘッジや
管理料、手間賃としての
対価ではではないかと思うんです。

それらの意味を、
胸を張って言えない状況だから、
印象が悪くなってきた。
というのが僕の見解。

そこで、ぜひ、
見えないマージンをやめて、
その分を「リスク管理料」などとして、
胸を張って見積書に表示してはどうかと。

必要なものに、
必要なお金はかかる。

クライアントのこと、
その先の生活者のことを考えた行為を、
ほとんどのクライアントは
ちゃんとわかってくれますから。

(とら)

虚勢。

空気の話の続き。

僕の好きな言葉のひとつに、
「空元気」があります。

からげんき。
呼んで時のごとく、
空(から)の元気。

うわべだけのやる気。
見せかけのいきおい。
いつわりの張り切り。

そんな意味はさておき、
空元気は、普通の元気よりも
力を持っている気がするのです。

何しろなんにもないところに
元気を生み出すのですから、
それはそれはエネルギーが要る。

元気が溢れたところで
元気を出すのとはワケががちがう。

でも、だからこそ
逆境で空元気を出せる人は、
輝いて見える。

場を、空気を、
元気にすることができる。

ともなってなかった中身が、
いつのまにかともなってくる。
そうなった時、
空は、空じゃなくなってる。
不思議なことだけど。

(とら)

気配。


「空気を読む」という言葉は、
いつの頃からか、
その重みを随分失ってしまった。

でも僕の中では、
あいかわらず大きな価値を持ってる。
言葉の字面はともかく、
内包している意味はとても大切。

広告づくりや物作りにかけては、
それなくしては何も生まれない
といってもいいくらいじゃないかと。

場の状況や
人の動き、心の動き。

そういった空気を
細やかかつ、全体的に察知できないと、
その場に必要な「何か」を
発することはできない。

ましてや、
もっと大きな、
社会だとか世の中だとかに
一石を投じるなんてことは、
もちろんできやしない。

だから
「読む」とはちょっとちがう。

もっと細やかに、
もっと広く。

「配慮する」なのかな、とも思う。

発信。

ずいぶん長い間、
ブログを休んでしまっていました。

しかし、ブログを書かないでいると、
いつもは考えないことを
考えたりもします。

そのひとつが、
「発信しないことで、
発信するべきアイデアが浮かぶ」。

何かを思いついた時、
その瞬間に発信できるツールは便利です。

ただ、考え発信しないことで、
自分の中に悶々と貯めておくことによって、
生まれるアイデアもあることを感じました。

思いついたアイデアを発信することは、
考えを顕在化させること。
自分の中で、想いが明確になります。

しかし、顕在化させないことにより、
確かな輪郭を持っていなかった
アイデアの種は、次の新しいアイデアへ転化する。
今まで僕は、そんな経験を、
何度もしているような気がします。

何か、ものをつくる仕事をされている方は、
みなさん、そういう体験をされたことが
あるんじゃないかと思います。

発信するツールが
発達した今からこそ、
あえて「発信しない」ことも
大事なんじゃないかと。

ブログ更新しなかった
長い言い訳文ではありません(笑)

(とら)

語調。

「言い方次第だよ。」

この言葉から、
あなたはどんな光景をイメージしますか。

日常のコミュニケーションで失敗した若者に、
上司が言い聞かせるシーンでしょうか。
ある夫婦の間の問題を相談された友人が、
アドバイスする様子でしょうか。
はたまた、デザイナーが、
広告代理店の営業マンを叱っている姿でしょうか。

「言い方」というのは、
あらゆるコミュニケーションに関わってくることなので、
様々な当時者の、様々な状況にあてはまると思います。

そして、「言い方」は、
言いたいことの本質ではないように見えて、
実はそれひとつで、
コミュニケーションの成否すらも
左右してしまう存在でもあります。

だから、
「言い方」を立ち回りのひとつと捉えるのは、
僕が思うに、まちがい。

言い方は、言うことの一部。

では、言い方を上手に操るためにはどうしたらよいか。
それは、相手をどれだけ思いやっているかに
尽きるのではないでしょうか。

どう伝えたら、相手の気分を良くすることができるか。
どう伝えたら、相手の心を落ち着かせることができるか。

自分が伝えたいことだけを、伝える。
それだけではなく、相手がどう受け取って欲しいかを考える。
そう考えると、コミュニケーションは、
発信する側、受け取る側のことを考えた行動なのだと、
あらためてわかります。
あたりまえのことかも、しれませんが。

(とら)

分析。

前だけ向いて走っていると、
時々、自分がどこを走っているのか
わからなくなる時があります。

自分の居場所を見失う、のではなく、
周囲が変化していることに気づかなく
なっていることがあるのです。

そこで、たまに僕は、
自分と、自分の周辺を客観的に見直して、
自分の居場所について分析します。
まるでクライアントのポジショニングを
確かめる際のように。

すると、今、いる場所、
そして、これから目指すべき場所というのが
徐々に見えてきます。

ビジョンは変わらなくても、
「目指すべき場所」「目指す手法」は、
周辺を見ながら相対的に変化していかなければならない。
それも、企業のブランディングと同じ。

変わらないこと。
変えていくこと。

それについては、
企業だとか、個人だとか、
規模の大小は関係ないですから。

といいつつも、自分の分析は、難しい。
「わかってはいるのだけれど。」と、
いつも悩みます。

(とら)

負荷。

若い頃に自分にかける負荷は、
後の長い道のりを支える、
筋力になると近頃つくづく思います。

いま、いろんな舞台において
活躍する人で、
「駆け出しの頃は、楽してました」
という人は少ないから。

天才肌と呼ばれる人も、
肌だけでは、
天才になれている人はほとんどいません。
その下にある筋力を、
どこかの時点で鍛えています。

では、負荷をかけるのは、
若い頃だけでいいのでしょうか。

ベテランでも、
成長を続ける人は、
負荷をかけ続けているように思います。

無理をかけるのではなく、
負荷をかける。

負荷は、投資。

報恩。

昨日は、とある広告代理店の
CDの送別会でした。

とても盛り上がるなか、
あっという間に時間が過ぎていきました。
(社内に残って働いていたみなさん、ごめんなさい)

世間で、怖さと厳しさで知られる
ディレクター氏だったのですが、
送別会では、ここぞとばかりに
いろんな温かい反撃(?)にあっておりました。

あたりまえですが、
厳しいということは、
責任感がある、ということ。
叱るということは、
期待している、ということ。

直属の部下だったTさんは、
いつも大変そうだったけれど、
正直、厳しい上司がいることがうらやましかった。
今はつらいことも多いでしょうが、
そのうち、きっと、大きくはばたいて、
恩返しされるんでしょうね。

僕及び、弊社としては
それほどたくさんは
おつきあいさせていただく機会が
なかったのですが、
ほんの少しでも関わらせていただいて
本当にありがたく思いました。

梅雨。

快晴、ではあるのですが、
どこかすっきりとしない、じめじめした梅雨。
早く夏が到来してほしいのだけれど、
なかなかやってこない。

でも、農作物にとっては、梅雨の雨が
恵みの雨に他ならないことはご周知のとおり。
この季節をしっかり経ていかないと、
作物はしっかり実りません。

この感覚って、
アイデアをつくる際の、
生みの苦しみに似ているなと
ときどき思います。

ただ、コミュニケーションのアイデア作成については、
熟考する時間は苦しくもあり、楽しい時間。
良いアイデアが生まれれば、
達成感が加わり、楽しさはさらに膨らみます。

ふだん、アイデアを生み出す時間を楽しんでいるように、
じめじめした梅雨も楽しめるようになったら、
好きな時間がもっとふえるということかもしれませんね。

(とら)

ふつうの家庭を。

先日、ある人に言われたことが、
強く頭に残って、離れない。

「ベンチャーだ、ハイテクノロジーだ、
となんだかんだ言っても、
最終的に、この世の中にある
ふつうの家庭を豊かにできるかどうか、
なんだよね。」

確かに、そうだと思います。

どんなに英知を結集した技術でも、
どんなに優れたアイデアの賜物でも、
最終的に、どこにでもある家庭に
何をとどけられるかに、尽きます。

逆に、あたりまえの家庭のことを
考えずにビジネスをくりひろげる
企業は、あっさり消えていく。
すこし前にニュースを毎日盛り上がらせていた、
偽装問題は、まさにその典型です。

そういうふうに考えていたら、
キユーピーのいまのスローガンを思い出しました。

「愛は、食卓にある。」

秋山晶先生
さすがです。
としか言いようがない。

(とら)

働く意味を知っているかどうか。

いま、某局の仕事を
させてもらっているのですが、
そこで、社員を取材するたびに
感じることがあります。

それは、取材した限りの方ではありますが
社員の皆さんが、
自分たちがここで働く意味を知っている
ということ。

働く意味。
言い換えれば、
自分たちがここで働くことに、
給料をもらうことを超えた
どんな価値があるか。

「社員は市民のアシスタントである」
というコンセプトのもとはじまった某局の
社員の皆さんの仕事の指標は、
すべて、市民のためになっているかどうか。です。

それだけシンプルなコンセプトと指標があるから、
常に自分がやっていることの確認ができる。
常にやりがいを感じていられる。

だからこそ
受け手と剥離するメディアが多い中、
市民と一体化した関係をつくりあげることに
成功している。

商品の価値を生活者が決めるということが、
当然となっている今。
メディアの価値も生活者が決めるということを、
強く認識させられます。

(とら)

初心を、常心に。

初心忘れるべからず、とは、
よくいったものだなと思います。

でも、ここまで効果のなくなってしまった
格言もないのかなと思います。

なぜなら、多くの人が、会社が、
当たり前のように、
初心を上書きしてしまっているから。

まるでそれが、
ただの古いソフトでもあるかのように。

確かに、更新していかなければいけないものは、
技術やノウハウをはじめたくさんあるけれど、
更新してはいけないものが必ずある。

会社をつくるときの決意だったり、
仲間と手を取り合うときの思いだったり。
結婚するときの気持ちもきっとそうなんじゃないでしょうか。

本当に大事なものがそこにはあるはずなのに。

今、会社が大きくなる、波に乗っている、
そんな方ほど知ってもらいたいと思います。
あ、幸せになろうとしてるひとにも。

大切なのはきっと、
初心を、初心のままにしないこと。
「常心」にすること。

(とら)

すごいんじゃない。幸せなこと。

近頃、一つのことを
続けることの価値を
つくづく感じます。

何とも唐突なのですが、
近頃、心から思うことなので、
とりあえず久々のブログに。

先日、取材した、
ある老舗企業の社長から聞いたことば。

「いや、永くやれていることは、
すごいんじゃなくて、
幸せなことだと思いますよ。」

僕の何気ない
「これだけ続けてきたことは凄いですよね」
という愚かなコメントへの
返答なのですが、正直ハッとしました。

続けるためには、経営能力や技術が
優れているだけじゃだめなんですよね。

どれだけ自分が続けたくても、
家族の状況、トラブルなど、
まわりの環境が、そうさせてくれない場合は
たくさんある。

まやかしのようだけれど、
ある意味、「運」がないといけない。

だから、その社長は、
すごいのではなくて「幸せ」だと
言ったのだと思います。
これって、
仕事のことだけじゃない。
恋愛だって同じだと思う。

好きなことや、だいじな関係について、
深く考えさせられたひと言。

「やめることは簡単でしょ」
なんて単純な話では、決して、ない。

(とら)

書く、から、気づく。

岩崎ご紹介月間も一段落。
今後、城東のおっさんブログは、
ランダムにお送りいたします。

というわけで、
久々にブログを。

1ヶ月ほどブログを
ほとんど書かずにいて、
ひとつ気づいたことがあります。

それは、
ブログを書くための素材を、
なんとなくストックするクセが
いつのまにか、身についていたこと。

何気なく、
日常の中での発見を
探している。

何気なく、
日常で発見した物事を
忘れずに覚えようとしている。

つまり、
普通だったら見過ごしていることも、
ブログを書くことで、
拾い上げていたんですね。

それは、
同じ時間を過ごしている人より、
いろんなことを楽しめて、
いろんなことに感動できることに
つながると思います。

「何か」あったから、書く。
というのが自然な流れならば、
書くから、「何か」に気づくというのも、
自然な流れなのかもしれません。

(とら)

歳を、とるほど。

ときどき思うのです。

歳をとるほど、
自分を喜ばせることより、
他の誰かを喜ばせたい割合が
ふえていくのではないかと。

大人になることは、
肉体的な力や、
お金の力を手に入れることでもあります。

たしか
大人になったら、あれをしようこれをしようと
思っていたはずなのに、
あんがい、そうでもなくなる。

大人になるほど、
自分以外にも、喜ばせたい人がふえていって、
その割合は、歳とともにどんどん増していく。

だからこそ、
家族というものを、
育めるのかもしれませんが。

(とら)

かたちにならないものが、かたちをつくる。

早い早い、
もう2009年の1月の最終週です。

こんな感じで、
一年が過ぎていくかと思うと、
ちょっとぞっとします。

そういう状態を誰かに伝えると、
「充実している証拠じゃないの」とか
言われますが、そうとは限りません。

あれやこれやを
やっているうちに、
何かかたちにすることのないまま、
一日が終わることだってありますから。
いわゆる、頭をつかっていただけの一日。

でも、それを、
空白とはいってはいけない、
と最近思うのです。
(否定したり肯定したり)

アウトプットとして
何かのかたちになっていないとしても、
ずっと一つのアイデアを出そうと
うんうん頭をしぼっていた足跡は
しっかり残っています。

何かをつくりだす過程において、
実は、アウトプットよりも、
うんうんうなっていた時間のほうが
だいじだったりする。

何かのかたちをつくるのは、
かたちになっていない時間なのですから。

(とら)

今、自分のいる場所。

今頃な話で申し訳ないのですが、
個人的な年賀状の話。

昨年末、
「今年は送らない主義」とか
勝手に自分で宣言して、
年中は個人的な年賀状を
一枚も書きませんでした。

でも、年が明けてみると、
こんな僕にも、
昔の友人やお世話になった方から、
ちらほら、と。

昨年までは僕からも送っていましたから、
その流れで出してくれていると思うのですが、
今回、全く書いていなかった自分としては、
「あ、来た」という感じでした。

どうしてかわからないけれど、
遠く離れた友人など大切な人の声を聞くと
いまの自分が「ここ」にいることを、
自分で確認する機会がもらえる。

ひとはどうしても、
他人から見た自分を見ないと、
自分を見ることができないところが
あるんだと思います。

「がんばってる?」

そんな、本当に短い言葉が
書いてあるだけなんですけど、ね。

「正解」を、「新しい正解」にする力。

良いモノをつくる人と
そうでない人のちがいのひとつに、
「粘り」があると思います。

正解へは、
すぐにたどりつくのだけれど、
そこからに時間をかける。

もっと良くならないか。
もっと理想に近づけないか。
もっと余分を省けないか。

その作業は、
単なる正解を、
他のどこにも存在しない正解へと、
導く作業かもしれません。

もちろん、
出発地点でのアイデアは重要ですが、
粘りは、それをさらに飛躍させる。

だからこそ、粘る人は信用できる。

忘れていたこと。


雪です。

ついこのあいだ、
「ぜんぜん、雪、降らないね。
このまま春になっちゃうんじゃないの?」

と話していたんですが、
「ごめんごめん、忘れてたよ」とばかりに、
どっさり降りました。

すでに、道だか田んぼだかわからない状況。

会社に向かう途中、
脱輪してるクルマも、ちらほら。

でも、そうならないように、みんな、
対向車が来ると、お互い、
すこしずつ、恐る恐る、
道の端によって譲り合います。

そろりそろりと、
ゆっくり走っていても、
「まぁ、しょうがないね」と
いつもよりいくらか穏やか。
(さらにカッカしてるひともいますが)

自分のことしか見えなくなる毎日の中、
まわりのことに、少しだけ気を遣う、
そんなきっかけをくれる雪は、
案外、まんざらでもないかな、と思います。

(虎)
といいつつも、大雪は、大変です。
みなさま、運転など、どうか気をつけて。

地方が日本を救う時。

100年に一度の経済危機。
そう言われる時代の中で、
もう一度自分たちの足元を見つめ直す傾向が
あるようです。

日本は、技術立国。

「作り手」として、
これまで歴史を育んできた力が、
次の時代をもう一度つくりあげる力として、
期待されています。

では、私たちが住む福井はどうか。

技術立国・日本の中でも
有数の技術立県として、
歩んできたました。

つまり、技術立国を支える技術立県。

控えめな県民性から
アピールを苦手としてきたところがありますが、
技術が生み出す数々のモノは、「本物」です。

つまり、
頑張らなくてはいけないのは
私たち広告に携わる人間たち。

ひょっとしたら、
日本を救うのは、
福井をはじめとした、
地方のモノづくり県かも。

決して安直ではないと思います。

(とら)

劣先順位。

常時そうですが、
特に時間に追われているときは、
優先順位をだいじにします。

でも、
たまにはその逆を考えることも
必要ではないのかなと思うのです。

忙しいからこそ、
優先しないモノを行ってみる。

ひょっとしたら、そこには
優先すべきことを、さらに強化させるヒントが、
転がっているかもしれません。

ひょっとしたら、そこには、
優先すべきことより、さらに優先すべきことを
見つける糸口があるかもしれません。

劣先順位。

「劣」とは、小さい力と書きます。

小さな力しか注ぐことを
考えていなかった場所に、
大きな力を注ぐこと。

今までやったことのないことをやることが
現状を変えるのは、
間違いないですからね。

目標はたくさん、たてよう。

新年、というと、
目標とか豊富という言葉が頭に浮かびます。

皆さんは、この年頭に、
何か掲げましたか?

僕は、「目標を去年よりたくさん立てること」を
目標としたいと思っています。

また、新年からわけのわからないことを・・・と
思われたかもしれません。

わかりやすくいえば、
逐一、何かをするときに、惰性でやっていたことも、
必ず、これまでよりも一つ高いレベルのゴールをつくる。ということです。

そしてたどり着く方法を設定する。

そうすることで、
何をするにもレベルが上がっていく。

それを行うだけで、面白いように、
守り”だった部分は全て“攻め”に変わるんじゃないかと考えています。

どこまでやれるかわかりませんが、
目標、として。


・・・
年賀状には書かせていただきましたが、
2009年より真空ラボに新しいメンバーとして、
webディレクターの岩崎が加わりました。
さらに仕事の可能性が広がった、というより、高まったと自負しています。
今、求められているのは、「本当」の答え。
本当という高みへ、今年はより近づきたいと思っています。

(虎)

決断と修正の繰り返し。

「決断の繰り返し。」
生きることについて、
そんなふうに言われます。

大きなことから、
小さなことまで、
毎日毎日、何かを決断しながら、
人は前に歩いていく。

そんな中で、当然、
すべて正解を選べるとは限りません。

だから、
間違った決断をしてしまっても、
次の決断でなんとか
修正をしながら前に進んでいく。

表出してしまったブレを、
修正しながら、
歩んでいく。

でも、
この修正するちからこそが、
少しずつ、決断の精度を上げていくと
思うのです。

つまり、決断と修正の連続。

修正することを
もっと前向きに捉えられれば、
もっと前進できるのではないでしょうか。

来年へ向けての、
ちょっとした自戒です。

への字口をひっくり返そう。

「来年こそは。」

そう思えるのは、
素敵なことだと思います。

誕生日だから。
結婚したから。
就職したから。

何度でも
生まれ変われるから、
何度でも
新しくなれる。

いろんな節目を機会に、
心を新たにできるのは、
人に備わった便利な機能のひとつですよね。

今日は、出勤日としては、
今年最後の月曜日。

まだまだ弊社は年内の業務に明け暮れていますが、
来年のビジョンを持ちつつ、
さらなるスタートダッシュに備えたいと思います。

何かとへの字口な世の中、
来年はもちょっと、出来る範囲で
世間をくすぐりたいと思います。

への字口も、ひっくり返せば笑顔ですから。

みなさま、乞う、ご期待を。

我慢は、努力になる。

先週末、
金沢で店をやっている友人と、
久しぶりに会いました。

「最近はやっぱり
お客さんが減ったね。」
という友人。

でも、悲壮感は
まったく感じられませんでした。

大丈夫なの?
と心配そうに問う僕に、
笑って返す彼はこんなふうに言います。

「確かに厳しいけれど、
今は、目標を達成するための
単なる通過点だから。」

淡々と日々をおくる人には、
厳しい今を過ごすのは、「我慢」かもしれません。

でも、その先に目指すものがあれば、
厳しい今を過ごすのは、「努力」になるのかも。
そんなふうに思った瞬間。

現状維持をする「我慢」と
先へ進む「努力」では、
考え方に雲泥の差があるのは明らかです。

その努力を楽しんでいる友人には、
ちょっとびっくりしましたが、
ひとつ勉強になった夜でした。

「次は」がある社会。

先日、久しぶりに家に帰った時、
すでに去年定年を迎えた父に、
家族がこんなことを言っていました。

「次は、学校の先生になったら?」

確かに父は、
学校の免許を持っていたなぁと思いつつ
聞いていたのですが、
おや?と思いました。

これって、
「次は」をとったら、
まるで子どもに夢を
聞いているかのような会話じゃないですか。

定年を迎えることが、
今の時代
「これからどうすればいいの?」という
不安な将来の到来のように
なっている感があります。

でも、
今の時代
定年を迎えた人たちは、
まだまだ働ける。
若い人にはない知識を備えている。

それだけじゃない。
僕は、熟年の人は、
古くて新しい感性を持っているとさえ思います。

定年を迎えて職場を離れることを、
ハッピーリタイアというけれど、
本当にハッピーになるために、
整えるべき社会があると思います。

「次は」がある。
そんなハッピーな社会に。

覚悟は、「芯」。

いろんなことに、
通ずることだと思うんですが、
成功する人というのは、
「覚悟」の力が強い。

「自分はこれでいく」と
決めている。

おそらく覚悟とは、
行動の「芯」になるのだと思います。

指針ではなく、芯。

芯を持っている人は
想いがブレず、一直線に、
ゴールへ向かいます。

だからこそ、
自分に厳しくすることも、できる。

もちろん、
自分にプレッシャーをかけすぎても
いけないと思いますが、
やるならば覚悟をもって挑みたい。

だって、成功するために
やっているのですから。

自分は何をどこまで覚悟できているだろう。

そんな問いを自らに投げかけることは、
たまには大事かも知れません。

「考え方」という、スイッチ。

つまり「考え方しだい」だよね。

みたいなことを、
皆、よく言います。

正直言うと、
僕は、この「考え方しだい」という考え方を、
あまり重要なものとして
捉えていなかったところがあります。

ややこしいですね。

つまり、
まず、「事実」があって、
それを捉える「考え方」がありますよね。

だから、「それは、人それぞれだよ」なんて
言葉も出てくる。

でも、僕は
「考え方」がどう変わったって、
「事実」は変わらないのだから、
「考え方しだい」という言葉に、
どこか無責任さを覚えていたのです。

デカルトとか、
そんな大それた話ではなくて、単純に。

でもですね、
現状を不況と捉える企業が落ち込み、
チャンスと捉える企業が伸びている今日を見ると、
「考え方」で「事実」は変わるんだなと、思ったわけです。

「考え方しだい」をきっかけに
さまざまな行動が生まれて、
「事実」が「新しい事実」へ変わっていく。

そんなふうに思うと、
「考え方」というスイッチは、
とても大きな力を持っていることになります。

僕らのつくっている広告は、
実際、クライアントの悩みを聞き、
解決する過程で、
いろんな「考え方」を提示します。

さもすれば、「新しい事実」をつくる「考え方」を提示している。

広告制作者は、
大役を任せられている事実を、
もっと自覚するべきなのだと思います。
自分たちも、含めて。

時間と結果。

最近、特に思うことなんですが、
忙しい中のほうが、
良い結果が出る。

理由はまず、
いろんな決断をするのが早いこと。

優先順位の決定。
ゴールへの近道設定。
表現の選択。
などなど。

忙しい最中だと、
さらになぜか、いつもより良いアイデアが、
出てくる気がします。

時間があれば
いいものができるわけではない。
自分に言い聞かせる部分でもあります。

(とら)

数字のチカラ。

一週間で三千万の売上げを出す方法!!!

みたいなワードが、
検索エンジンにいっぱい並ぶ、昨今。

ほんとに人は数字に弱い。

なぜかというと、
数字は「具体的」だからでしょう。

人は具体的な結果を見せられると、
信じてしまいやすい。
通販の常套手段ですね、これ。

でも、面白い事実。

人が数字のキャッチコピーを見て
実際に知りたいと思うのは、
その数字の結果に結びついた過程。

さらに言えば
数字などの結果を見せて、
勝手に過程を想像させるから、
優れた通販は見事に勝利を得ます。

先日、とある会計士に、
「数字に振り回されたらだめだよー」と
言われました。

数字は大事だけど、
数字に振り回されてはいけない。

つまり

結果はだいじだけど、
結果にふりまわされてはいけない。

寝ぼけ頭でそんなこと思いました。

言葉にできないくらい禁止令。

体験したことのない感動を
味わった後などによく用いられる、
「言葉にできないくらい良かったです・・」
というコトバについて、考えました。

確かに気持ちはわかるんです。

表現しきれないくらい、
何物にも例えられないくらい、
考えることができなくなってしまうくらい。

どうしようもなく、感動することって、
生きていればきっといつかはやってきます。

そんな素晴らしい体験(逆もあるかもしれません)に対し、
「言葉になんかできないよ」というのは、
当然、ありですよね。

でも、僕らは広告の仕事をしている限り、
「これは、素晴らしい商品すぎて、言葉にできませんね」とか
「すごいサービスですね、デザインできないです」とは、
当たり前ですが、言えないし言っちゃいけない。

もし、
その「素晴らしさ」に表現が到達できないとしても、
たどり着こうと、挑戦しなくちゃいけない。目指さなくちゃ行けない。
そこに、デザインや言葉の未来があることは
まちがいないのですから。

だからあえて、
言葉にできないくらい禁止令。

楽しむ力。

歳をとらないために、
最も必要な能力は、
楽しむ力かもしれない。

そんなことを思った理由は、
先日、ものすごく元気な先輩に会ったこと。

先輩といっても、
はじめて会ったご高齢の方。
いわゆる、人生の先輩です。

言ってみれば、
「おじいちゃん」なんだけれど、
ある力においては、僕より遙かに、若い。

デジタル機器などに、
好奇心のかたまりとなって、
むかっていく。

わからないことは、
調べたり聞いたりして、乗り越えていく。

そして、その一連の過程を、
「楽しい」と言う。

楽しむ力が歳をとらない限り、
人間はいつまでも元気なんだと確信しました。

挑戦しているから、つまづく。

自分に不足していることを
ずばり発見するためには、
どうしたらいいか。

答えは、
新しいことに挑戦することに尽きます。

そしてさらに、発見した足りない部分を
補充するのにどうしたらいいか。

答えは、
新しいことに挑戦し、
挫折感を味わうことに尽きると思います。

足りない部分を見つけるだけでは、何も変わらない。
補うことでのみ、変わることができる。

失敗することは、かけがえのない機会。
自分が挑戦しているから得られるチャンスです。

あの時、ああいうことがあったから、
今の自分がいる。

そういう思い出のほとんどが、
「挑戦による失敗」を起点としていることに、
このあいだ、ふと気づきました。

さて、今日は連休明け。
お休み中の東京仕事もとりあえず終わって、福井へ。

影という光。

寒い寒いと思っていたら、
ついに雪が降ってきましたね。

この雪。
福井のイメージの中では、
「影」にあたる部分かもしれません。

でも、この雪は、
「あたたかい田舎」の象徴だったりします。
テレビなどで見る、
雪の中、家に帰って温まるシーンには、
ほっと心のどこかを暖められます。

また、
雪に閉じこめられた世界で、
じっと耐えながら何かに打ち込んできたことが、
福井がもの作りの県である由来であったりします。

いわゆる、
雪という影あることで、
福井に当てられている光が、
あるような気がするのです。

「影がある人」という言い方もありますが、
そういった人は、
人格の中にどこか否定された部分があるからこそ、
魅力的に見える。

僕たちがつくっている広告は、
さもすると、「光」の部分だけを取り上げがち。

「影」を理解することで、
商品や企業の人生に隠れた
より本質の魅力を届けることができるのでは、
と思います。

・・そんなことを書いている間に
さっきまで降り続いていた雪がやみ、
分厚い雲から陽が差してきました。

リスクの見方。

リスクヘッジは、クリエィティブだと思う。

近頃、広告において、リスクヘッジを重視する
クライアントがより増えてきたように感じます。

巨額を投資する際は当然。

かけられるコストが低くなるほど、
かけられる時間が少なくなるほど、
リスク管理は、未来を左右します。

たとえば、ネーミングひとつをとっても同様。
商品開発の過程で商標をとらないことは、
今のネット社会では、万が一の事態を招きます。

商品にもよるけれど、
せっかく開発した機能やサービスが、
ネーミングひとつの商標を怠ったせいで、
水の泡になってしまうこともある。

様々な広告ツールを回収する必要性が生じ、
多額の損害を被ることもある。

家を建てる際に、
「何かあった時のお金」を残すように、
リスクヘッジも必要経費だと考えることは
当然だと思う。

想像すれば、わかることなのだから。

無意識視点変換。

先週末から今週にかけて、
やたらと出張がたくさんありました。

毎日、誰かが県外へ足を運んでいる。

県外クライアントの案件であったり、
県外に展開するクラインとの案件であったり、
または、セミナーのためであったりと、
目的は多彩。

面白いのは、
全国展開する戦略と
県内のみの戦略を同時に担当していると
相乗効果が生まれること。

森をみながら林を見る作業を
意識せずに行えるようになっている感覚があります。

同時にいくつかの仕事をしていると、
アイデアが出やすい。とは
いつかブログで書いた気がしますが、
その感覚ととよく似てるのかもしれません。

優先順位は自分が決めてる。

やらなきゃいけないんだけれど、
やれていないことって、
けっこうあります。

これって、
「やらなきゃいけない」と思いつつも、
結局、自分の中での優先順位が低いんだなと、
最近気付きました。

だって、本当に
「やらなきゃいけない」ことなら、
優先順位は黙ってても上位に来るはずだから。

それが下位にあるのは、
心のどこかで、
「まだいいや」と認識しているんだと思います。

ごはんを食べることを、
後回しにしたりはしませんからね。

つまり、「やらなきゃいけないこと」を
早くやるためには、
優先順位を上げればいい。そういうこと。

自分にとって、
それがどれだけ大事なことかを
自分に対して言い聞かせれば、
いいのかもしれません。

今年も、あと2ヶ月切りました。
やり残しのないように、
過ごしたいものですね。

古くて吸収率のいいスポンジに。

この歳になると、
(最近、この書き出しをよく使うなぁ)
先生が少なくなります。

いや、学校へ行くということではありません。
学ぶ機会が減ってくるということ。

新人や駆け出しの頃は、
見るモノすべてが新しくて、
まさにスポンジみたいに、
いろんなことを吸収できる。

でも、キャリアを積み重ねるほどに、
吸収率が悪くなってくる。

成長してるからじゃないの?
という言葉が飛んできそうですが、
そうではないと思う。

どんな人にだって、
学ぶことは膨大にあります。
どこまで行ったって、
きっと、追求に終わりなんてないはず。

吸収率を悪くしているのは、自分。
「ここまででいいや」とどこかで考えていることが、
原因にほかならないと思う。

つまり、学ぶ機会が少なくなったのではなく、
学ぶ機会と出会う意識が減ってきているということ。

市販のスポンジは使えば使うほどに
吸収率が増していくもの。

歳なんて忘れて、
もっと、スポンジになりきらなきゃ。

置き換えの教育。

自分を誰かに。
そして、誰かを自分に。

表現の仕事で、
あたりまえのように用いる、
「置き換え」という手法。

文章の中の言葉を
そっと差し替えるだけで、
今までそこにあった世界が、
一瞬にして新しくなる。

これって、
実は、教育という必要性の中で
常に、親が子に教えてきたことなのだと、
ふと思いました。

幼い頃、
「された子の身になって考えなさい!」
そんなふうに親に怒られた記憶は、
多くの人が持っているはずです。

言葉を置き換えることで、
視点を置き換える。
そうすることで、
今ここにはない状況を想像する。

想像する作業を、
いたって普通に
わが子に学ばせる親という存在には、
あらためて驚かされます。

子どもを育てたことのない
僕がいうのもなんですが。

日々という機微。

私事になるのですが。
最近、庄野潤三氏の作品に、
しばらく心酔中です。

氏の作品には、
特別なサプライズも、非日常も、まったく出てきません。

「人生は、決して特別なものではなく、
ひとつひとつの小さな、友人や家族との
何気ない交わりの日々である。」

そんな考え方のもと、
訥々とと語られる文章。

1960年代の家族や夫婦を主役にした、
日常の輪郭を、そっと、やさしく撫でるような物語には、
とても共感する部分が多いです。

広告となると、何より優先される「新しさ」。
そこには、同時に「インパクト」という目標が、
無言のうちに掲げられます。

でも、新しい共感は、
未だ見ぬ経験からは決して生じなくて、
当たり前の毎日の体験から創出されます。

そう考えると、
どれだけ、一日の中で、自らや身近な人の感情の機微を、
丁寧に見つめることが大事かがわかり、
どれだけ、自分が真剣に時を送っていないかを、
思い知らされるのです。

「軽い気持ち」の重み。

「軽い気持ちで始めたんですけどね」。

3年ぐらい前から
朝のジョギングを始めた友人。
今でも続いていて、
彼の健康の土台になっているとか。

「軽い気持ち」はあなどれません。

軽く始められるから、
スタート時のプレッシャーがないのです。

しかも、軽く始めたつもりが、
継続させていくことで、
一つの結果としてかたちになってくる。
積み重なって重みが出てくる。

何かとリスクを考えてしまう、昨今。

たとえ、気が重いことでも
後のことは考えずに
「軽い気持ち」でやってみるのは
意外に大切なのかもしれません。

成長のリミッター。

歳をとると、
思い切った行動がとれなくなる。

その理由の一つに、
「この年齢で失敗はできない」という思いが
あるのではないかと思います。

ただ、大きな成長というのは、
失敗がないとできないものでもあります。

何といっても、
行動する前の勉強よりも、
失敗した後の反省のほうが、
得るものは大きい。

体験に勝るものはないですから。

で、あれば、
歳をとっても成長を続ける人というのは
失敗を恐れない人なのかもしれません。

失敗する怖さや、恥ずかしさ。
そんな「思い切った行動」にかけられたリミッターを、
どうやってはずすか。

常にリミッターをはずせる
人間でいたいですね。

疑似体験ツール。

本を読むと、何を得られるか。

あたりまえだけど、
ビジネス書を読むと、
新しい技術や手法や考え方が手に入る。

では小説は?

僕は、小説を読むことで、
未体験の世界が手に入ると思っています。

就いたことのない職業だったり、
行ったことのない国だったり、
出会ったことのない恋愛だったり、
まだ達していない年齢だったり。

もちろん本当の体験に勝るはずはありませんが、
小説を読むだけで、
疑似体験ができます。

最近では、
ブログとかでも同様の感覚を得られるかもしれません。
でも、発信者という明確なる主体が存在するブログは、
自分が体験している感覚を得られるかというと、ちょっとムズカシイです。

ひと一人が生きられる時間は限られていて、
同様に、体験も限られる現実のなかで、
疑似でありながらも、いろんな体験をもたらしてくれる
「小説」というシロモノは素晴らしい道具だと、
あらためて思っています。

いろんな体験が、共感を勝ち取るための
強い武器となる広告の仕事においては、特に。

コンセプトは決断を整理する。

人生は決断の連続とは、
よく言われる言葉。

確かに、
一日を分解すると、
些細なことから、大きな案件まで(自分的に)
いろんな決断を行っています。

「む、起きようかな・・・。でも、寒いし。起きようかな」
というような布団の中での小さな葛藤から、
「ありゃ、雨が降りそう。傘もっていこかな」
というような空を見上げてのひとり争議や、
「右側に人が歩いてる。飛び出してきそう。よけとくか・・・」
というような道路上での選択まで、
日常を見直すと、決断ばっかり。

生きることは、決断していること
と言い換えられるくらいな状況であることに気付きます。

ふだんはこれらのことに、
何かと行き当たりばったりで向き合っている自分。

しかしもし、軸というか、指針のようなものが
ベースとしてあれば、すべての決断は、
もうちょっと変わってくるのでは、と最近、思うのです。

たくさんの小さな決断が、
自分の目指す方向に向かうのではないかな、と。
それが自分のコンセプトになるのかも、と。

夜中、ねちねちと企画書をつくりながら、
考えた次第であります。

記憶の責任。

広告制作のことを、
クリエイティブというけれど、
まったく今までにないものは、
そう簡単には作れません。

必ずどこかで、
過去に誰かがやった仕事から
アイデアをもらっていたり、
インスパイアされているはずです。

ただ、アレンジが
悪いというわけではありません。
だって、世の中のすべてのものは、
進化していくものであって、
広告制作も例外ではないはずですから。

でも、広告を作っている人間として、
心得ているべきことがあると、最近強く感じます。
それは、過去の広告を覚えていること。

広告が、あくまで商品や企業の
独自化の手段である限り、
当然、競合他者の発信している内容と
イメージが似通っていてはいけない。

また、「どこかで見たことがある」感じを
与えることで、企業のサービスや商品の
新鮮さを失わせてはいけない。

そのためには、
今、世の中に出ているものや
過去に発信された広告は
可能な限り、知っておく必要があります。

知ってさえいれば、
視点をずらしたりすることで、
回避は可能なはずですから。

過去の仕事の記憶は、
作り手の責任だと思うのです。

いいものが生まれる時間帯へ。

真空ラボは、
一応、営業時間は朝9:30です。
でも、たいがい8時くらいには、もう誰かがいます。

空気の澄んだ朝は、
気分が良いし、
集中できるから、仕事もはかどる。

一日の段取りが立てやすいので、
余裕も持ちやすい。

とここまでの話を聞いていると、
朝型なのか、と思われるかもしれません。
真空ラボは、夜型でもあります。

クライアントと打合せしたプロジェクトを、
夕方から組み立てる。

外が暗くなって、落ち着ける時間帯に、
細やかなディテールを見つめ直していく。

つまり、各人が仕事をしやすい時間帯に
仕事をこなしているのが
真空ラボ風とでもいいましょうか。

いいものをつくるために、
まず、自分をいい気分に。
それも仕事の一環だと思います。

朝の肌寒さと夜長が心地よい秋は、
特に、そのルールを実践できている気がします。

しわ。

今年の初頭に立てた計画が、
どこまで進んでいるか、
気になることがあります。

ちゃんと進んでいることがあったり、
そうじゃないことがあったり。

一年は、今日の積み重ねに過ぎないので、
今日できなかったことは、
確実に明日にしわ寄せされます。

そんなことを言うと、
心に余裕が無いように聞こえますね。

でも、心に余裕が持てる人は、
たどり着きたいところへ、
余裕を持って進んでいる人だと思います。

一年が終わってみると、
余裕がある人ほど先に進んでいる事実。

しわだらけになる前に、
お手入れを。

関係を描く。

好きな人にどう思われたいか。

だいじな人には、
ウソはつきたくありません。
裏切りたくもありません。
偽りの自分を見せたくもありません。

できれば、
本当の自分を好きになってもらいたい。

自分をさらけ出してなお、
信じてくれる人に
ずっと応えていきたい。

だからこそ、がんばる。
だいじなひとに役に立ちたい。
だいじなひとに喜んでもらいたい。
だいじなひとに幸せになってもらいたい。

なのに、
企業と生活者の関係に置き換えた瞬間に、
あたりまえのように相手を裏切る人がいます。

「広告は別だから。」

そう、軽く言ってのける。
広告は生活者という意中の相手もしくは恋人に、
直接投げかけるかけがえないメッセージなのに。

いつだって基本は、ひとつだと思う。
好きな人にどう思われたいか。

秋の雨。

この数日間で、
一気に秋が深まった感がありますね。

この頃の雨は、
夏の雨とはちょっとちがって、
散っていく枝葉など、いろんな香りを
運んでくる気がします。

「それじゃ、また来年。」というような。

秋が寂しい気持ちにさせるのは、
そのせいもあるのかなと。

こういう気付きは、
その時は強く感じるのだけれど、
なぜか、すぐ消えてしまう。

どこかに書き留めておかないと、
まるで最初から何も感じていなかったように、
姿を消してしまいます。

そう考えると、
このブログはとても便利。
何気なく、感じたことをメモしておける。

子どもの頃、ブログはまだなかったから、
せめて日記でも書き留めておければよかった、と思います。

茫漠とした記憶も、
もう少し輪郭を帯びて、アイデアの種になってくれるだろうに。

本当の秋。

肌寒い朝。

秋分の日も過ぎて、
急に秋色づいてきた気がします。

そういえば、周囲の木々も、
少しずつ茶色く表情を
変えてきているような。

仕事にかまけていると、
ついつい、季節の移り変わりにも
鈍感になります。

仕事の中で、
季節感を表現をしているくせに、
実際の感覚としての季節が薄れていく。

いつのまにか、
「秋ってこんなんだったよな」と、
記憶の「経験の秋」だけで表現している。

実際は、
周期が早まっていたり、
気温が高くなっていたりするはずなのに。

求められている季節感が、
記憶の中にあるものかどうかはさておき、
忙しいからこそ、
季節をちゃんと感じなければ、と思います。

自分の企画書。

企画書を書くとき、
その企業なり商品なりの、
ポジションを書き出します。

ポジションとは、
言葉どおり、現在の場所のこと。

どんな環境に存在して、
どんな要素をもちあわせていて、
どんな強みをそなえていて・・・などなど。

だいじなのは、
どこへ向かうべきか。
いや、向かいたいか、ということ。目標ですね。

制限された時間内に、
目標へどうやってたどりつくか、
客観的に考える。

これって、実は、
自分の人生とかにも
あてはまるんですよね。

なかなか自分のこととなると
客観的には眺められないけれど、
ちょっと遠くから眺めてみると、
夢とかへのプロセスも、意外に単純だったりします。
もちろん恋愛もおなじ。

これまた広告とおなじく
いつも思惑通りにいくとは限りませんが
「なんとなく」よりは、必ず近道になります。

帰る場所。

先日、ある地元の後輩から、
「仕事、うまくいかないんすよ。やめようかな」
というようなことを言われて、ふと考えました。

今の若い人って、
「帰る場所」はあるのかな、と。

いや、自宅のことではなくて。

行き詰まったときや、
困ったとき、
悩んだときに、
立ち返る時間的な“地点”のことです。

僕ならば、
コピーライターになってまだ3年目ぐらいの頃。
名古屋のコピーライターの事務所で
働いていたときのこと。

がむしゃらにやってるわりには、
何をやってもうまくいかなかった頃。
でも、その時のことを思い出すと、
大抵のことは乗り越えられるような気がします。

自分の今を乗り越えられるのは、
自分しかいないわけで。

「ちょっと力を貸してくれよ」と、
自分の力を借りに行く過去があることは、
きっと大事なことなんだと思います。

あきらめる勇気。

「やればできる」という言葉。

最近は、これって、
ちょっと無責任なフレーズなんじゃないかと
思い始めています。

可能性は確かに
あるかもしれないけれど、
やって成功することを保証しているわけでは、
当然、ありません。

でも、子どもの頃は、
けっこう勇気をもらった気がします。

そして、たいていのことは、
言葉通り「できた」ような気も。

ただ、大人になるにつれて、
いくら「やればできる」と言われても、
なんでもかんでもできなくなってくる。

その理由は、できれば
自分に本当に必要なことだけに、
自分の時間は使いたいから。

いや、正しく言えば、
自分には向いていないことに
限られた時間を費やしたくないから。

なんて言うと、
好奇心がない、とか、
チャレンジ精神がない、とか言われそうだけれど。

他人の「やればできる」に惑わされることなく、
ただ一つの道を選ぶことは、
自分の中に勇気をつくることが
できるようになった証拠だと思うのです。

言いたくないけれど、
企業という「人間」も同じだと思う。

歌声。

夜、仕事をしていると、時々、
外から奇妙な歌声が聞こえます。

いや、もうお盆も過ぎましたから
怪談とかでは、ありません。

うちの会社は、
大通りではなく
いわゆる、裏道に面して建っているので、
気を抜いて、歌いながら帰る人が多いのです。

会社の帰り、学校の帰り、遊んだ帰り。

どこからの帰路かはよくわからないけれど、
とにかく、帰り道の歌が
開け放した窓から入り込んでくる。

どこかで聞いたことがあるのですが、
家への帰り道、というのは、
ほとんどの人が良い気分なのだとか。

他人の目をやたらと意識しすぎて、
ときどき息が詰まりそうになる昨今だけど。

誰かの「帰り道」になれる
広告会社でありたいと思う。

潜在アンテナ。

やりたいと思っていた
仕事が入ってきたり。

会ってみたいと願っていた人と
話す機会ができたり。

頭のどこかで思い続けていると
「ふと」かなうことってよくありますよね。

あれは、
表面的に自覚していなくても、
潜在意識の中で、
常にアンテナを張っていることで、
起きる結果と、聞きます。

つい先日も、
その現象がありました。

「こんな本があったらいいのにな」と、
思いながらも、表面的には忘れていた本と、
本屋で出会いました。

どこかで強く思っていれば、
勝手にサーチしてくれるこの機能、
誰にでも備わっている才能なのだと思うけれど。
あらためて、便利です。

クールな根性論。

今の時代、
根性論なんて、
もはや流行らないけれど。

熱さというのは、
大切だなと
最近よく思います。

人はいつも、何かしら、
熱くなれるモノを探していて、
共感する部分があれば、
いっしょに燃焼したいと
思っている気がするのです。

でも、こんな時代において、
「絵に描いた餅」を食べるために、
いっしょに燃焼する人はいない。

できれば、
裏付けのある物語の中で
いっしょに燃えたい。

だからきっと、
根性論がいらないわけではなく、
クールな根性論が
求められているじゃないかなと思う。

ややこしいけれど。

あたりまえのチカラ。


今朝、コンビニへ行った際のこと。
一人の少年が、
いったん駐車場に停めた自分の自転車を、
店の軒下あたりに移動させていた。

ピークの通勤時間はもう過ぎているけれど、
「もしクルマが来たら、邪魔になる」と考えたのだろう。

別にこれといって、
目新しいことではないのだけれど、
これって、想像力だなと思った。

想像力、というと、なぜか
特別な、社会を動かすチカラのような印象がある。

でも、決して、楽しい、すごい、面白いアイデアだけが、
想像力ではない。

想像力は、いつも生活の中で使われている。

「ぬれた傘をそのまま満員電車に持ち込んだら、
 中の人に迷惑がかかるだろうな。」

「ゴミを分別せずに捨てたら、
 ゴミ収集の人が困るだろうな。」

「早く帰らないと、
 親が心配するだろうな。」

どれもこれも想像力。

つまり、想像力とは、
誰かの視点に立って思いやるチカラなんだと思う。
「社会を動かす」という点では、
あたっているかもしれないけれど。

生き様。

「生き様」というと、言葉そのものから
「勢い」や「凄まじさ」みたいなものを感じてしまって、
ついつい本来の意味を見失いそうになります。

正しくは、「生き方を示した具体的な生活態度」。

なんで突然、この言葉の話をし出したかというと、
広告づくりって、まさに「生き様」の表現だと思ったから。

広告づくりが、共感。の獲得を目指す技術である限り、
自分自身が身をもって体験して、
感じたり思ったりしたことが、何よりの頼りになる。

どんなにちっぽけでも、
どんなに薄っぺらくても
自分の生きてきた量や距離がいちばんの武器になる。

そう考えると、
自分の生き様をしっかり確認して生きることは
とっても大事なことだとわかります。

ちっぽけな生き様に存在する思いや気持ちは、
ちっぽけな生き様(と思っている)の人にしか伝えられないのですから。

大事なのは、
自分を思うこと。
自分を考えること。

濃い時間だからこそ。

今年も、お盆がすぎて、
きっと気付くと秋なんでしょうね。

濃い時間は過ぎるのが早い、
とはよく言いますが、
本当にそうなのか。
濃いと思っているだけなんじゃないかと、
ちょっと自問自答してしまいます。

過ぎゆく時間が早いからこそ、
その内容を気にしたい。

一ヶ月の間に何をしたのか。
一週間の間に何をしたのか。
一日の間に何をしたのか。

仕事に追われるのでなく、
仕事を追う立場でいるために。

忙しいときほど、
自分自身をしっかり見つめなければ
いけないのだと思う今日この頃です。

平凡な、異常気象。

暑い日が続いています。

「僕にとっては
 もう夏は終わったような感じなのに、
 こんなにまだ暑い。」
と、ある人に言ったところ、

「僕にとっては、
 今は単なる異常気象だよ。
 だって夏らしいことしていないもの。」
と切り返されました。

なるほど。
その人にとっては、
夏とは勝手にやってきて
勝手に通り過ぎるものではないらしい。

自分から迎えに行って、
その季節にしかない特別な体験をすること。

僕の身近で最も、
夏の格好をしている彼なのに、
すでにタンクトップの彼なのに、
きっともうすぐ上半身裸で仕事をする彼なのに。

でも、
「迎えに行かないと何の季節かもわからない
 異常気象の毎日」って、案外、
現実に訪れそうな気がしてちょっと怖いです。

安らぎの浸透圧。

このあいだ、実家に帰ったら、
母のC型肝炎が
完治したことを聞かされた。

そういえば、最近、
元気になったような気がしてたもんなぁと、
ふとふりかえると、足下にじゃれつく犬が。

数年前に飼い始めたマルチーズ。
母の気持ちが少しでも安らげばと思って
父がペットショップで買ってきたのですが、
「アニマルセラピー」って本当にあるのだと思いました。

ペットの犬や猫といっしょにいると、
なんとなく癒されて穏やかな気持ちになります。
現在では医療技術の一つとして、
取り入れている医療機関も多いとのこと。

でも、よく考えてみれば、
他の生き物にふれあって、
エネルギーをもらうのは、ペットに限らないのかもしれません。

憂鬱な朝、植物に水やりをすることで、
少し晴れやかな気分になったり。

立ち寄ったコンビニで、店員さんに何気なく挨拶されて、
どことなく快活になったり。

クルマの中で好きな音楽を聴いて、
いつの間にか楽しいリズム感の中にいたり。

知らず知らずのうちに、安らぎは、
ストレスの濃い場所へ流れているように感じます。

自分たちの仕事は、商業ベースだから、
決して、ペットや植物がもっているような効果が目的ではないけれど、
時に、近づくことができればと思います。

(とら)

大変だけど、幸せな日々。

先日、ある仕事の関係で、
地元ローカル線の本社へ足を運びました。

地図の示す住所に到着すると、
そこにあったのは、本社というにはやや控えめな建物。
若干とまどいながらも、社屋の中へ。

担当の女性が出てきて、
会議室らしき部屋へ案内してくれました。
その女性が上司を呼びにいっている間、会議室を見渡すと、
目に付いたのは、部屋の端にあった本棚。

ずらりと並ぶビジネス書を手に取ると、
そこには、何度も読み返されたような跡。
勉強してる人がいるんだなぁと思っていると、外から、コツコツという足音。

ドアが開くのに合わせて、入り口のほうへ振り返ると、
担当の女性と、その上司らしき男性が立っていました。
さっそくご挨拶を。と近寄り、
いつものように名刺を出す僕。同じように名刺を差し出す彼。

でも、その先が「いつもの」ではありませんでした。
「はじめまして」という僕に対し、彼から返されたのは
「久しぶり」。

見上げた視線の先にいたのは、高校の同級生でした。
「びっくりしただろ」と言わんばかりの笑み。

スーツに身を包み、
世のおじさんと同じような体格をした彼。
でも、おぼろげながらに残る、高校生の時の面影。

それから仕事の話を少しして、一息付いたあと、
「大変そうだね」と言うと、
「大変だよ」と彼。

地元の期待を背負って、全国でも新しい取り組みを
次々と展開しているこのローカル線。
そこで一線をはっている社員の皆さんの頑張りは、
実際に話を聞かなくても、想像できているつもりでした。
が、やはり、実際はそれ以上のもの。
現在、たくさんのメディアに取り上げられている数々の実績は、
彼らの努力の上に生まれているんだと再認識しました。

でも、実は、なにより印象的だったのは、
そんな大変な毎日のことを話す彼が、
どこか幸せそうに見えたこと。

「きのうは、地域の公民館で、
 お祭りに駅舎を使ってもらうための打合せをしてきたよ。
 青年会のお祭りなのに、みんな70歳だよ」

「こんなに、自分たちの住んでいるところについて考えたことなかったよ」

そんな話を苦笑いしながらする彼。

たくさんのしがらみの中で、
プレッシャーとも言える地元の期待を背負って、
決して物質的に大きな見返りが
そこにあるわけでもないはずなのに。

少し擦り切れたスーツの袖をまくりながら、
目を細めて笑う彼が、
その時なんだかとてもうらやましく感じたのを、
今でもよく覚えています。

(とら)
久しぶりに書いたら、
長くなってしまいました・・・反省。


卒業。

やっとほんの少しだけ、
聞こえてきましたでしょうか。
春の足音。

春と言えば、入学・卒業。

この、入学と卒業、
「どちらが好き?」と尋ねられたら、
皆さんはどちらを指すでしょうか。

僕は、卒業。
「切なさがいいんですよね。なんだか甘酸っぱくて…」
と言いたいところですけど、
それだけでもなくて。

どちらかというと、
「入学」より「卒業」に
期待感を強く感じるんです。

何かを始めてしまうと、
過程も、ゴールも、
見えてきてしまいます。

でも、何かを終える時は、
やがて訪れるものが
まだおぼろげなせいもあって、
ワクワクする。

この得体も知れない「ワクワク」が、
たまらないです。

さて、
まだ見ぬ新しい春の足音。
いろんな新しい仕事の足音にも聞こえます。


久しぶりのエントリー。
谷口嬢ファンのみなさま、失礼しました。
(とら)

小さくてほっとする生き物。

つらい時や、
泣きたいことがあった時。

大きな青空を見ると
それまで抱えていたことが
小さく感じられて、
楽になることがあります。

これって、
「この青空に比べたら、
 なんて自分の悩みはちっぽけなんだろう」
って思うってことですよね。

いつも、
成長しなきゃとか、
大きくならなきゃとか、
思っているくせに、
自分が小さいことを知って安心する。

そんな僕らは、
やっぱり変な生き物だと思います。

さ、今日も青空。
がんばらないと。

雪かき。

僕の実家がある坂井町は、
雪が降ると、一面真っ白です。

家の前の道も。
田んぼも。
学校のグラウンドも。
公民館の駐車場も。

いろんなものが、
一緒くたにされてしまいます。

隣の家との敷地境もなくなります。

だからかどうかはわかりませんが、
雪かきは、隣近所みんなでいっしょに、
していた記憶があります。

誰も何も言っていないのに
誰にも迷惑にならない雪置き場所が自然に決まり、
お互いがお互いの庭や駐車場も雪かきする。

雪が積もって道が見えなくなるのは嫌ですが、
雪が積もって人の境目が少しなくなるのは、
ちょっと、いいかもしれません。

もちろん、小さい頃は、
そんなことまったく思いませんでしたが。

印象。

「うちの広告のイメージを変えたいんだけど」。

そう言われた際に、
あなたはどうするでしょうか。
全改訂して一変させますか?

それも方法として確かにありますが、
手軽にサックリと一変させる方法も
あることを知りました。

それは、
従来もっていたイメージと相反するパーツを、
目玉として加えること。

うまくいけば、
「方向性変更」ではなく
「方向性充実」として機能するかもしれません。

はい。お察しの通りです。
弊社のサイトのinfoスペースを見て、
気づきました。

ここまでイメージが変わるとは・・・。

すれちがい。

広告とは、「すれちがい」を
「良い出会い」に変えることなんだと思います。

いきなり何を言い出すんだと
思うかもしれませんが、
事務所の窓から、車のすれ違う道路を
見下ろしていてふと考えました。

情報に触れる機会が溢れ、
能動的に出会いを求めれば、
かなり高い確率で結ばれることのできる現代。

人や企業は常に「すれちがい」をしていると考えます。

街の中で、建物の中で、ネットの中で。

見えているのに、見えていない。
それが普通の状態です。
擦れるほど近くを通っているのに、通り過ぎる。

だからこそ、タイミングよく声をかけることができれば、
すぐに知り合うことができると思うのです。

問題は、声のかけ方。

第一印象はなかなか消えません。
悪い出会いをしてしまうと、ずっと後を引く。
逆にいい出会い方ができれば、
ちゃんとそれなりの見方をしてもらえる。

だから、
ただ、声をかけるだけではいけない。
悪い出会いをするくらいなら、
すれちがっているままの方が良いかもしれません。

皆様、ぜひ良い出会いを。

リズム。

誰にでも、自分の生活をつくっている
リズムの軸というのがあると思います。

いちばんわかりやすいのが食事。
コーヒーtimeとか、犬の散歩とか、
ジョギングとか、音楽を聴くとか。
きっと人それぞれあるはず。

最近の僕は、
このブログがそんな存在に
なってきています。(やっと)

一日の終盤にブログを書くことで、
次の日のリズムにつながる。

今日もしくは今日以前に気づいたことを
文章化することで、
明日とるべき行動のために
リズムを合わせているような。
そんな感じでしょうか。

でも、今後はこの軸を
もうひとつ増やしてみようかと。

まだ秘密です。

不安は安心をつくる。

とあるラーメン屋で、
餃子をほおばっていたお昼のこと。
隣のテーブルから、
とても興味深い会話が聞こえました。

カップルらしい男女。
餃子を注文しようとする女性に、
男性が言います。
「え、餃子頼むの?こんな時に」
すると女性はひとこと。
「こんな時ほど、安心な時はないでしょ」

確かに。
今ほど、餃子の材料に
気を使う時はないと思います。

不安は安心をつくる。

と考えると、
こりゃ餃子の話だけに納まらないなと
思えてきました。

昨年から続く、いろんな不安は、
ひょっとしたら、
本物の安心が生まれる前触れなのかも、と。

これから、
本当に安心で安全なものを一生懸命つくる企業が、
ちゃんと評価される時代がやってくるんだ、と。
ポジティブ過ぎるかもしれませんが。

「で」。

最近、「で」を入れようキャンペーンを
ひとりで実施中です。

「そうすか」
「まじすよ」
「ほんとすね」
「くさいんすよ」

「そうですか」
「まじですよ」
「ほんとですね」
「くさいんですよ」

にする活動です。

僕を含め、多くのおじさんが
「で」抜きコミュニケーションを
行っている気がします。

勢いに溢れた体育会系の若者の皆さんが、
よく、「〜ッスよ」と言いますが、
恐らく、これと同様ではないでしょう。

逆に、なるべく体力を使わないように、
「で」を抜いているのではないかと思われます。

おなかにチカラを入れて、
「で!」と言う。
これ、メタボ対策にもいいんじゃないかと、
密かに思ってます。

広告だからね。

週末、家族とテレビを見ていると、
ドラマの途中にTVCMが流れました。

化粧品か何かのCMだったと思うのですが、
それを見た母が過剰に反応。

でも、すぐに父が「広告だからね。」と、ひと言。
「そうね」と返す母。

よくあるシーン、よくある会話ですが、
広告制作者にとってこれは、
真摯に受け止めねばならないメッセージです。

父が言った「広告だぞ。」には、
「広告だから本当のことじゃないんだぞ」」と
いう意味が含まれています。

いわゆる消費者の広告フィルター。

これを通り抜けない限り、
僕らの仕事は達成されません。

よく「広告は見られない」というけれど、
「広告は、信じられていない」とも言える。

信じてもらうために、何ができるか。
表現を開発する前に考えなければいけないことが、
たくさんある、ということ。

貪欲。

貪欲であることは、
広告制作ににとって、
何より大切。
最近、つくづく思い知らされます。

下の写真は、
今、展開されているある広告の撮影風景。

道路上にいるのはモデル。
一面の雪に染まった畑の中に見える
小さな石のような黒い塊が、
弊社のハセガワと竹澤です。

R0010055.JPG

追われるより、追いかけたい。

もちろん恋愛の話ではなく、
仕事の話です。

追われるだけの仕事はツラいけれど、
追いかける仕事は楽しいです。

かといって、
いくつかの仕事を同時に進行させていく限り、
すべての仕事を(時間的に)、
追いかけている状態にするのはムズカシイ。

でもですね。
追われる中でも追いかけることができるのが、
恋愛にはない、
仕事の良いところだと思うのです。

時間的には追われていても、
仕事は、その中で
自分のゴールを追い求めることができる。
いわゆる「追求」ですね。

時間的に
どんなに追い込まれていても
追求している限り、楽しい。

そんなことをブログに書き込みつつ、
今日も追い込まれながら追求しています。

軸。

時代の流れとともに、
いろんなトレンドが出現します。

広告についても同様です。

企業ブランドのつくり方について
時代に適した
いろんな戦略や戦術が生まれます。

もちろんそれは、
今現在で有用なものであり、
活用するべきだと思います。

でも、
忘れてはいけないのが
「軸」を持つことだと思うのです。

広告会社としての、軸。

変化するものを見極める、
不変の考え方。

流れるものを活用するからこそ、
自らは流されてはいけない。
そう自戒する今日この頃です。

本質。

頭の良い人。

という定義は幾多ありますが、
僕が思う定義は、
「本質」を見抜くスピードの速さ。

「それって、こういうことでしょ」が、
すぐ出てくる人です。

本質がスルッと
素早く出てくる人には無駄が少ない。

だから、
広告制作であれば
表現に時間がかけられます。

つまり、
細部に、ディテールに、
エネルギーを注ぐことができます。

磨かれた細部は、
本質を語るメッセージをより強くする。

本質を導き出す力こそ、
広告を強くする力でもあります。

本質力、とでも言いましょうか。

コピーを、ふつうの生活に。

生活をわかりやすくする言葉って、
あります。

最近、そんな言葉に出会ったのは、
お仏壇の前でした。

小さい頃、
よく意味もわからず
お祈りしていたお仏壇。
(わが家は浄土真宗)

昔から、不思議に思っていて、
なんでお祈りするの?とよく親に尋ねました。

でも、
誰もはっきりは答えてくれませんでした。

でも、あるお坊さんの言葉が、
スカッとさせてくれました。
本当に最近のこと。

「お仏壇は端末なんですよ。
 ここから、あの世にアクセスするんですよ。
 元気かい?って」

いろんな疑問がスッと解けた瞬間でした。

お仏壇やお祈りの意味だけじゃなくて、
なんだか家族のつながりの
ありがたみまでわかった気がしました。

ちがう世界で生きる言葉をドッキングさせたりして、
より強い言葉をつくることは、
広告コピーとしては常套手段。

だけど、そういう言葉こそ、
普通の毎日の生活で登場することで
普通の毎日の生活を豊かにできるのかも。
と思ってしまいました。

鉄棒の原理。

といっても、
「こての原理」のように、
ラクして何かができるという話では
ありません。

どちらかというと、
苦労して何かができるようになる
という話です。

昔、鉄棒で逆上がりをした時のことを
ちょっと思い出してみてください。

最初はできなかったけれど、
何度か挑戦してできるようになった自分。
苦労して苦労して1回、成功を得ると、
なぜかそこからは、何回でもできるようになる。

それまで全然できなかったのに、
カンタンにできるようになっている。

当たり前のようだけれど、
これって結構フシギ。

1回できるようになれば、
何度でもできる。

自分にとってレベルの高い課題を
こなせるようになる秘訣は、
無理してでもこなすことにあるのだと思います。

さて、今晩も、
鉄棒の原理で、困難な課題に
取り組むとしますか・・・。

スピードの出ている時こそ、遠くを。

年明けから忙しくさせてもらって
本当にありがたい限りです。

忙しい時は、誰しも、
目先のことに
とらわれがちになります。

しかし、実際、
そんな時こそ、
視点を15度上げて、
遠くを見たいものです。

遠くを正しく見れれば、
目的地に達するための
今の走行方法が
まちがってないか確認できます。
そして、足りない燃料を補充できます。

ドラッカーは、
「2年半先を予測することができる」
と言ったけれど、
凡人の僕たちは、
常に1年先を見つめて走りたい。

ある意味、
広告づくりは、
予言の連続でもありますから。

人間関係は、生き方。

ひとりの人について知る時、
ときに、本人を見るより、
人間関係を見たほうが、
その人についてよくわかることがあります。

類は友を呼ぶとは
よく言ったもので、
同じ波長を持つ者同士というのは、
たぶん、ひかれあう。

だから、
人間関係を眺めると、
その人の人柄や、
考え方などが、見えてきます。

フラットな人には、
幅広い人間関係が生まれる。

国際的な人には、
国境を越えた人間関係が生まれる。

でも、考え方が変われば、
人とのつき合い方も変化し、
人間関係も変わっていきます。

つまり、相関図は、
人の生き方そのものなんだと思います。

身近な人々を大事にした祖父が、
葬儀の時、
身近な人々に大事に見守られながら
他界していったのを思い出します。

年末年始。

なんだかんだと言っている間に、
2007年も終わりを迎えます。

真空ラボとしては、
最終日まで、
プレゼンなどでばたばたとしており、
とても年末らしい年末ではありませんでしたが、
そんな中で年を越せることが
ある意味、ありがたくもあります。

2008年も、
どんどん自分たちの加速度を上げて
皆様にとっての強力な協力となるために
尽力してまいります。

どうぞ宜しくお願いいたします。


〈営業案内〉
お休み12/29〜1/6まで

抱負。

今日、ある人に
来年の抱負は?
と聞かれて、
すぐに答えられませんでした。

いつも思うのですが、
これを尋ねられて、
すぐ答えられる人は、すごい。

常に、自分の目標を確認していると
いうことですから。

ところで、
この「抱負」という字。

なんで「抱える」に「負ける」なんだ?と
ずっと思っていました。

どうやら「希望を抱きかかえる」と
いう意味があるようですね。

「目標」と言ってしまえば、
単なる道しるべ。
目指す場所。

そこを、
「抱きかかえる希望」=「抱負」と
するところがなんとも素敵。

一年の最初に願う
夢や希望は、
ただ目指すのではなく、
抱きかかえて大切に育てたいものです。

一年に一度の、お願い。

いま、とある神社の
仕事をしているのですが、
鳥居を見ていて
ふと思ったことがあります。

神社と言えば、
正月にたくさんの初詣客が
訪れる場所。

何台もクルマが連なり、
行列をつくって、
みなさん参拝にやってくる。

押し合いへし合い、
団子状態でも、
やってくる。

そんな人たちは、
何をしにくるかというと、
みんな、何かしら願い事を
しにくるわけです。
「今年いちねんは・・・」
みたいに。

つまり言ってみれば、
あの人数分だけの
「願い事」が神社に
押し寄せてきているということ。

それって、すごいことだと思うのです。
願い事は、前向きだから
持っているもの。

あらゆる人を
一年に一度、
人を前向きにさせてくれる神社。

もちろん、ありがたいご利益は
いろいろあるんだろうけれど、
もう、それだけで、
十分、価値があるんじゃないかと
思ってしまいます。

営業案内。

12月20日。
本当に日時の流れるのは早くて、
今年も残すところあと10日です。

一応、弊社としては、
原則的に、28日までの営業と
させて頂く予定です。
仕事初めは、1月7日です。

正月ぐらいはゆっくりと
睡眠もとって、
家族と過ごし、
来年への英気をやし…、

と思っていたら、
そうゆっくりもしていられない予感。

でも、
求められるのは、
あるがたいこと。

ココロの、
アクセルを緩めること無く、
年末年始をかけぬけたいと思います。

気持ちの部分も含めた、
真空ラボの営業案内です。

誰かのためになら、頑張れる、生き物。

「帰り道にふと思った。
 この暗い夜道を
 妻や子も歩いているのかなぁ・・・・・。」

住宅情報ナビのコピーです。

このキャッチコピーのあとに、
「駅前でセキュリティ充実のマンションあります。」と
つづきます。

妻子ある男性に、
直接、訴えかけるのではなく、
奥さんや子供のことを言うことで、
男性に住まいについて考える機会を
与えています。

いわゆる、
ちょっとした間接話法。

このコピーの巧みさはさておき、
これを見て思ったのは、
人って、本当に贅沢な生き物だということ。

多くの人は、
自分のために出せるエネルギーは、
たかが知れてる。

自分以外の誰か大事な人のためじゃないと、
それ以上のエネルギーを出せない。

親にとっての子供。
夫にとっての妻。
彼氏にとっての彼女。
飼い主にとってのペット。

まあ、逆に言えば
自分以外の誰かのためには、
いつも以上にエネルギーを出せる、
素敵な生き物なのですが。

広く浅くの前に、ひとつを深く。


ひとつのことは、
ひとつで終わらない。

いろんな仕事をしていると、
ひとつの仕事で得た知識が
他の仕事でも
生かせることがよくあります。

福井のこと、
産業のこと、
技術のこと。
そのほかあれこれ。

同じ時代に、
同じ人間相手の
仕事をしているのですから、
つながってくるのも当然ですが。

これは、仕事だけでなく、
知識を得ること全般に
言えることだと思います。

ひとつのことを深く知ると、
ほかのことも、見えてくる。

ちなみに僕にとっての
知識の入り口は、
恥ずかしながら
プロレスでした。

レスラーのことを知ったら、
団体のことが見えてきて、
団体について知ったら、
興行のことが少し見えてきて
興行のことを少し知ったら、
経済のことがちょっぴり見えてきて。

もちろん、
関連性の広がりは
一方向ではないので、
いろんなものにつながっていきます。

「広告マンは広く浅く、
いろんなことを知るのが大事」
というようなコトバをよく聞きますが、
僕は、まず、何かひとつを深く知ることが
大事だと思ってます。

たとえ、それが、
どんな分野でどんな業界のものだったとしても。

1日、27時間。

今年もあと半月。

「いつまで営業ですか」
みたいな会話が
ちらほらと聞こえるように
なってきました。

そうなってくると、
あのシーズン到来です。
そう、忘年会。

今日、とある会社の忘年会に
参加してきたのですが、
その会社の社長が、
とても印象的なコトバをくれました。

「仕事してると、24時間なんて、あっというまです」
という僕のコトバへの返答。

「1日を24時間以上にできるかどうかは、
 その人次第。」

24時間以上?

その社長が言いたかったのは、
自分次第で、
いつもの24時間のあいだにできることは、
もっと増やすことができる。
ということだったんだと思います。

日常でよく使う
「時間をつくる」というコトバは、
ひょっとしたら
ここからきているのかもしれません。

24時間が24時間以上にできるということは、
365日は365日以上にできるということ。

400日ぐらいの1年にすることを目指して、
来年はがんばりたいなと、
来年へ向けての豊富です。

ブログを書く理由。

唐突ですが、
ブログを書いている皆さんは、
どんな理由で書いているのでしょうか。

個人であれば、
日記のつもりで、とか、
アイデアを記しておくため、とか。

企業であれば、
PRのため、とか、
戦略のひとつとして、
とかになるのでしょうか。

ちなみに僕は、
「日常の中にある発見」
のようなことを綴っていけたらと思い、
(ほぼ)毎日、掲載しています。

新しい視点っていうと、
ビジネスのツールとしてばかり
考えてしまいがちですが、
普通に毎日を生活するためにこそ、
生かせるのが一番いいと僕は思っています。

今日見つけた新しい視点のおかげで、
明日の一日が気分よくすごせたら、
いいですよね。

誰かにとっての
そんな役割を、
このブログが少しでも
担えたらうれしいです。

そんな存在になれる日を目指して、
頑張ります。

山は続くと平地になる。

仕事がピークのときに、
「今が山だから」みたいなことを
言いますよね。

では、もし、
この「山」ばかりが続いたら
どうなるのか。

「山」とは
「谷」があるからこそ
成り立ちます。

「山」だけでも、
「谷」だけでも、
そればかり続いていては、
成立しない。

そう考えると、
ずーっと「山」なら
それは「平地」なんじゃないかと、
思ったわけです。

いくら高地でも、
そこが平坦なら、
歩くのはつらくない。

仕事に例えれば、
そうやってできた「平地」に、
さらに「山」をつくっていく作業が、
きっと、レベルアップすると
いうことなんだと思います。

「山」で埋め尽くしては、
平坦にし、
また「山」をつくり始める。

ピークで埋め尽くしては、
それが当たり前にし、
またピークをつくり始める。

まぁ
高いところにある平地は、
空気は薄そうですが。

あなたは、途中にいます。

企画の方向性を探る際に、
よく使われるコトバ「切り口」。

「切り口はいいんだけどねぇ〜」
みたいな感じで話してるのを
聞いたことがあると思います。

最近思うのは、
この「切り口」って
「途中」だということ。

この世に生きている人は、
常に人生の途中にいます。
さらに細かく言えば、
何かをしている途中にいます。

「今晩のおかずを何にしようか迷っている途中」

「彼氏と別れて、恋って何だろうって思っている途中」

「犬を飼っていたんだけど、逃げちゃって探してる途中」

「この仕事はじめて、8年か。
 いまだに自分に向いてるかどうかわからないって悩んでる途中」

「結婚してから、子供ができて、
 いつの間にか夫とは空気みたいな関係になっちゃって、
 なんだか寂しいような、これでもいいような不思議な気持ちを
 抱いてしまってからすでに7年たっているけど
 普通に暮らしている途中」

ピンポイントだったり、広幅だったり、
例を挙げ出したらそれこそ星の数ほどある途中で、
私たちは暮らしてます。

でも、広告の企画などで表れる「切り口」は、
なぜか同じような「切り口」ばかり。
(自戒の意も込めて)

実はこんなに切り口は、あるんですよね。
しかも時代が移ろう度に、どんどん変化していく。

そんなふうに思うと、
いまだ見つけられていない、新しい切り口は、
無限にあるんだって思えます。

というわけで、
ときどき現れる、
「もー何も思いつかないよー」っていう自分に、
さよならしている途中です。今。

自文化。

文化とは、
一般的には確立された
生活様式のことをいうらしい。

でも、ここまで
生活が多様化してくると、
文化もひとくくりには
できないのではないかと
思ってしまう今日この頃なのです。

たとえば、
「僕は、お風呂は朝派さ」とか
「私は、鼻をかんだ後ティッシュの中を見ないわ」
という人がいたとすると、
それも文化ではないかと。

ただ、
あまりにも私的すぎて、
サブカルチャーでもないし、
大衆文化でもない。

ということで、
そういう自分の中にある
生活様式、いわゆるライフスタイルを、
「自文化」と名付けてみました。

もし万が一、
自分一人だけがやっていたことであっても、
文化の一つであるならば、
胸をはって続けられる気が、
少しだけします。

社会人。

最近、とある仕事で、
いろんな人に、
「あなたの思う社会人は?」と
聞いてまわっています。

社会人って何ですか?
と聞かれて、
サッと答えられる人は少ないです。

それはきっと、
ほとんどの人が、
自分が社会人だと意識して
過ごしてきていないから。

「お前もう社会人なんだからさ!」
みたいなフレーズはよく聞くけれど、
言っている本人は、意味が分かって
いっているのかというと、疑問です。

辞書で引くと、
「実社会で働き、活動している人」
と書いてありました。

じゃあ、フリーターも?
派遣社員も?

どうやら、
年齢でもない。
職業でもない。

もちろん、定義としては
決まったものがあるんだろうけれど、
認識として定まっていない。

でも、面白いのは、
質問をされた人が、
しだいに必ず同じ方向に向いていくこと。

最初は
「自立した人」「仕事に誇りを持つ人」
などというふうに、
「社会での在り方」を答える。

でも、深く話しているうちに、
「家族を大事にできる人」
「働いて、家族を守っている人」などと
答え始める。

社会という外向きの話が、
いつの間にか
家族という内向きの話に変わってる。

社会人として何ができるかが、
家族のために何ができるか。
になってる。

何気なく使っている言葉が、
こんなに奥の深い言葉だとは。
びっくりです。

微笑ましい。

先日、ホームセンターの店内を
物色しながら歩いていると、
小学校低学年ぐらいの少年が
こちらに向かって走ってきました。

手にはフライパン。
どうやらお店の商品。

少年は全速力で走ってきたかと思ったら、
目の前の角を「キッ!」と左折。
ん?と思い、曲がった行方をのぞくと、
弟らしき別の少年と、
いわゆるチャンバラをしていました。

弟らしき少年の武器は、
布団たたき棒。
もちろんこれもお店の商品。

大声をあげながら、
いわゆるチャンバラをする少年たち。
周囲の大人は、見てみぬふり。
なんとなく迷惑そうな顔。
(ま、僕も何もしなかったわけですが)

チャンバラしていた少年たちは、
戦場を変えるがごとく別のコーナーへ。

その時でした。
一人の大人が、
走る少年の腕をガッとつかみ、
頭をパコン!!
次の瞬間、もうひとりの頭もパコン!と。

なんと、
モンスターペアレンツ溢れる
こんな時代に、
他人の子供を叱れる大人がいるとは。
しかも、鉄拳制裁。

と思っていた矢先、
大人の口から出てきた言葉は、
「コラ、○○○!!、○○○!!
 どこでもいくなっていったろうが!
 それ、お店のやろ!返してこいま!」と。

親。

でも、叱らなきゃいけない時に、叱れる親。
「ごめんなさい」と素直に謝る子供。

親になったことはないので
よくわかりませんが、
親子の微笑ましい光景って、
「叱ったり叱られたり」にあるんじゃないかと思いました。

つくる人は、語る人。

いいものは、
なんとなくでは
生まれない。

そんなふうに思ったのは、
今日、いくつか行った取材の後。

いろんな取材をしていると、
いろんな人に会います。

すべての人が饒舌でないのは
当然なのだけれど。
何かを、何かのためにつくった人には、
何かしら想いがある。

だから、
自分がつくった作品や商品などについて聞かれれば、
話すのが上手だとか下手だとかは、二の次。
とりあえず、話そうとする。

作ったものに対しての溢れる想いを言葉にする。
自分が、作ったモノで
何を伝えたかったか、何を感じてほしかったかを話す。

語れる何かを持っているから。
語りたい何かを持っているから。

でも、たまに、
どんなにいろんな方向から質問しても、
「別に何も無い」という、
返事をする人がいます。

作ったものが、
作り手にとってすべてだけれど、
作る過程に、もし何も無いとすれば、
それは、何も作っていないことと
同じではないでしょうか。

言い過ぎかなぁ。

昔の手帳。

先日、資料をあさっていたら、
ひょっこり出てきた、昔の手帳。

この仕事をはじめて
3年目ぐらいに使っていたもの。

確か、あの頃、住んでいたのは名古屋。
福井から、修行のつもりで出て行って、
見ること聞くこと、
すべて新鮮な環境で働いていました。

中を開いてみると、
目に飛び込んできたのは、
赤字でぎっしり書かれたメモ。

先輩コピーライターからのアドバイス。
上司に教えてもらった仕事の進め方。
挨拶にはじまる、ビジネスマナーのこと。
その他、仕事をする中で感じたいろいろ。

当時は、与えられるすべての言葉が
それこそ格言のように聞こえて、
必死になってメモってました。

赤字の内容を、
今の自分がすべてこなせているかどうかは別として、
書いてあるのは、けっこう、
あたり前のことばかり。

ただ、この頃の特別な「必死さ」は、
もう、持ち合わせていないかもしれないな、と。

ちょっとだけ、大事なことを
思い出させてくれた、一冊の手帳。
いつでも取り出せる場所に、
仕舞い直しました。

久しぶりに会った人。

昔、一度だけ会ったことのある人に、
久しぶりに会いました。

その人は、当時も
すごい実績を持った人だったのだけれど、
あれからしばらく経って、
さらにすごい人になっていました。

そこで思うわけです。
「自分は、どうか」と。

立ち止まってはいないか。
成長を続けているか。
目指すべき状況に近づいているか。

自分だけの世界でモノを見ていると、
何より、自分を客観的に見れなくなります。

でも、ときどき、
懐かしい友人や知人に会うと、
今の自分の場所を、
じっと見つめ直すことができます。

頑張っている人には、
「やる気」がもらえます。

正しく言えば、
自分が「やる気」を出す
きっかけをもらえる。

もらうだけでなく、
自分も誰かにあげられるように、
頑張らなければ。

ちょっと姿勢を正した今日です。
ありがとう。

インパクト。

広告づくりを行っている人間なら、
必ず一度は、投げかけられたことがある課題。
「インパクト」。

「新商品なので、インパクトがあるやつを」
「回数が限られているので、インパクトを」
「インパクトのある広告で、名前を浸透させたい」
「枠が小さいので、インパクトが欲しい」
「競合がたくさんあるので、インパクトを」
・・・・・などなど。

ここでお気づきの方も、
いらっしゃるでしょう。
そう。
あらゆる場合において、
インパクトは前提です。

まず、目に留められなければ
意味がありません。
広告ですから。

でも、目に留められ方は、多種多様です。

大声でなければ届かない状況もあるし、
声を出さなくても届く状況もあります。

大事なのは、どんな環境で、誰に、何を、どう言うか。

決まり文句のように投げかけられる、
「インパクト」のない「インパクト」のせいで、
基本を忘れては、いけない。

自戒の意味も込めて。

イス。

イスはひとを変える、という。

僕は、イスによって
人が成長する過程は
ふたつあると思っています。

ひとつは、
誰かにイスを用意されて、
イスに合うように成長する。

そして、もうひとつは、
今のイスでは物足りなくて、
自ら新しいイスを求めて成長する。

受動的な成長か、
能動的な成長か、
とも言えます。

どちらにしても、
大切なのは、
今の座り心地を
大事にしすぎないこと。

今座っているイスから
離れない限り、
新しいイスには座れませんから。

※文章と写真は関係ありません。

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みんなの空間。

いつもなんだかんだと、
たくさんの人が集まるわが事務所。
今日はいつもに増して、
大勢の人が訪れました。

クライアントの皆様。
パートナーの方々。
同業の仲間たち。
その他諸々。

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わが事務所の目指す姿のひとつに、
「想いが行き交う空間」があります。

人が行き交うとともに、
たくさんの想いが行き交う空間。

多くの人が訪れ、
対話できる場所でこそ、
求めていた何かが出来上がるはずです。

今後とも、
みなさん気軽にご来社ください。

あ、人がたくさん来ても、
ちゃんともてなしを忘れなかった、
わが社のエリート営業マンのことを忘れてはいけません。

撮影にいらっしゃったタレントさんの
ブログにも登場。
あいかわらず、やる。

途中で止める。

仕事のスピードを上げるために、
近頃、行っていることのひとつに、
「途中でやめる」があります。

スピードを上げないといけないのに、
やめてどうする?
と、突っ込みを入れられそうですね。

でも、「途中でやめる」のです。

あくまで、
個人的に感じていることですが、
仕事のスピード感って、
クルマなどの乗り物のそれと
似ている気がします。

走り出してから
徐々に加速度が増してきて、
スピードが出るようになる。
そして、トップスピードに近づいていく。

次回、仕事を始めてから
このトップスピードに、
いきなり到達するために、
「途中でやめる」のです。

言い換えれば、
スピードに乗り始める直前まで、進めておく。

クルマとちがって便利なところは、
エンジンをかけっぱなしで、
翌日まで放っておけるところでしょうか。

授業。

仕事を教えてくれる人がいる。
仕事を教えてくれる人がいない。

就職して、どちらの環境に
身を置くことになるかは、
運だと思います。

ただし、
身をおいてからの道は、
自分次第です。

教えてくれる人がいないからといって、
何もできないまま過ごすか。
何かをできるようになるために、もがくか。

教えてくれる人がいたとしても、
自ら吸収する意欲がなければ、
教えてくれる人がいない環境にいるのと
変わりません。

大事なのは、
今、自分が成長するために
できることが何かを
考えることだと思います。

本当に必要だと思えば、
本や、ネットや、スクールなど、
「教えてくれる人」を
自らつくり出すこともできる。

今日、そんなことを考えながら眺めていたのは、
弊社で行われていたひとつの授業。
科目名は、「カメラ」。

なんとも、
うらやましい環境ですが、
果たして。


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「縁」より「出会い」。

「縁」という言葉は、
捉えようのない世界が、
あまりにも大きすぎて、
好んで使いません。

でも、「出会い」は好きです。
もちろん末尾に
「系」はいりませんよ。

「出会い」は
「縁」に比べて、
偶然のパーセンテージが
高いように感じるのです。

また、「縁」ほど、
未来が用意されていないように
思えるのです。

そこに深い意味はないかもしれない。
でも、「出会った」。

意味はこれからつくっていく。

どんな出会いも、
当人次第で、良くも悪くもなる。

「縁」は宿命、
「出会い」は運命。
そんなふうに
言い換えられるのかもしれません。

昨日、当社に、
ひとつの「出会い」が、
生まれました。

良い方向に導きたいものです。
(トップページの求人広告を、そろそろ消さないと)

もうすぐOPEN

社会でまっとうな
経営をしている限り、
どんな企業にも、
「使命」があると思います。

いわゆる、ミッション。

自分の会社は、お店は、
世の中に、
何をもたらすか。
何のためになるのか。

ミッションを
持っているかどうかは、
存在意義でもあると思います。

そして、指針となります。

自分たちは何をすべきなのか。
どんな立ち振る舞いをすべきなのか。

ミッションを持つ企業は、
自らが届けるサービスで、
顧客がどんなモノを得るのかを、
どんな想いを得るのかを、知っています。

だから、
現在、世間を取り巻く、
食をはじめとした商品への不安は、
そこには生まれません。

11月2日、鯖江市にオープンする
下のお店「Sloe berry」も、
そんな企業のひとつだと思います。

果物と野菜とスイーツの
味わいのベースにある、
お店のミッション。

ぜひ、美味しさとともに
多くのお客様に感じてもらいたいと思います。

「Sloe berry」のみなさん。
ブランドづくりに協力させていただき、
ありがとうございました。

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的禁止令。

僕的に。
キモチ的に。
ヨーロッパ的に。
おっさん的に。
Youtube的に。
真空ラボ的に。
・・・・・・。

「的」。

コトバのおしりに付けるだけで、
明言をさけて、
ぼかしながら言うことができるワード。

「わたしは!」とか、
ズバッと言えない状況では、
とても便利なコトバです。

よくわからない事実に、
一枚フィルターをかけて、
「そうなんじゃな〜い?」と
伝えてしまうことができる。

しかし、これを多用しすぎることは、
危険だと、近頃、思えてきたのです。

明言をさけるということは、
物事をあいまいなままにしておく
ということ。

つまり、いろんな事実から
逃げながら、
コトバを発していることに
なるのではないかと。

しっかり調べない。
ちゃんと考えない。

そんな状態を披露している
ことになるような気がするのです。

便利なコトバは、
危険です。気をつけなければ。
(あえて狙って使う場合をのぞいて)

モノも、思い出。

先日、引っ越しをしまして、
その際に不要となったインテリアを
リサイクルショップに
買い取ってもらいました。

取りにきてもらう前は、
「早く持っていってもらって、
 すっきりしたい」
と思っていました。

しかし、いざ、
運ばれ始めたのを眺めていたら、
これが、けっこう寂しい。

あああ。

あれ買うときにはすっごく迷ったなー。
とか、
カラー選びに苦労したんだよなー。
とか、
あのカウンターで仕事したりしたよなー。
とか、
いろんな記憶が蘇ってきました。

あんまり愛着持っていなかったようで、
いっしょに過ごした時間のぶんは、
ちゃんと思い出になっていました。

むかし、
「モノより思い出。」
というクルマのキャッチコピーがありましたが、
あらためて、モノも思い出だと、
感じちゃいました。

しかし、カウンター×2で4,000円・・・。
モノはよく考えて、
思い出にしなければいけませんね。

鉄の塊が入った重いカバン。

ブログを2日間も休んでしまいました。

東京出張とはいえ、
パソコンを持っていったので、
書ける環境にはあったはずなのに・・・。

福井に帰るまで、
電源を入れることも無し。

鉄の塊が入った重いカバン。
まるで、筋トレでもするために、
持っていったかのようです。

「足かせならぬ、腕かせだなこりゃ」と思いつつ、
周囲を見渡してみると、
東京には、パソコンの入ってそうなカバンを
持ち歩いてる人がけっこういました。

でも、みんな、スタスタと軽快に歩いてる。
どこに向かっているのかは知りませんが、
まちがいなく、そのスピードは
僕らの軽く1.5倍の速度はある。

東京人というと、
体力のあるイメージはないのですが、
実は彼らは、日々、長距離を歩き慣れているんです。

反して僕ら福井人は、
福井の大自然(言い過ぎか)の中で、
エネルギッシュに生きていると思いきや、
実は、どこに行くにもクルマ。
ほとんど歩かない生活。

交通機関がないことが、
体力を低下させているなんて、
ちょっと皮肉ですよね。

イベント

そんなことはさておき
D+の方々と企画した
ビッグサイトでのイベントはうまくいきました。
みなさま、お疲れ様でした〜。

死語以後。

言葉は、いったん流行ると、
その後は、急速に劣化し
死語になってしまうことが多いです。

最近、その経路をたどっている言葉として、
思い浮かぶのは、『こだわり』。

その意味を辞書で引くと
「わずかなことに心をとらわれ、進展できない」
と出てきます。

転じて一般的には、
「思い入れ」や「妥協しない」
というニュアンス。

一時期は、本当に、
あらゆるところで使われていました。

まるで、書いてあれば、それだけで、
追求して作ったモノやサービスに見えてしまう
魔法のコトバであるかのように。

でも、それっておかしい。

「思い入れ」や「妥協しない」
という意味で使用するならば、
それは自分を突き詰めることであり、
「個の追求」です。

あの人、あの会社にしか
できないモノでなければ、いけない。

しかし、『こだわり』は、
誰でも使える同じ言葉です。

本当の『こだわり』が世に伝えられていくのは、
便利な『こだわり』という言葉が死んだ、
これからなのだと思います。

「こういうことだな」。

この仕事をしていると、
どこか見切ったように感じる瞬間が
時々やってきます。

しかし、それは束の間。

気付くといつも
「こういうことだな」は、
目前から消え去っています。

そしてまた
しばらくすると、
ふたたび「こういうことだな」が
目の前にやってきます。

今度こそ、見切ったかも。
と思うのですが、
気付くとやっぱり、消え去っている。

毎月、毎週、毎日、
この繰り返しです。

おなじ「こういうことだな」に、
ふりまわせれているのか。
毎回ちがう「こういうことだな」を
追っかけているのか。

いずれにしても、
「こういうことだな」を
追いかける旅は、
これからもつづきそうです。

もちろん、
それを楽しんでいる自分もいるのですが。

張り紙

※写真と文章はあんまり関係ありません。

好きな仕事は、つくるもの。

今日の夕飯(というか夜食)は、
吉牛でした。

なんとか深夜0時までに入店でき、
豚丼ではなく、牛丼を注文。

あいかわらずうまい。
ほくほくの笑顔でがっついていたのですが、
今日は、味より店員のほうが印象的でした。

何が印象的だったかというと、
「ものすごく楽しそう」だったのです。

単純作業を、リズム良く、
本当に楽しそうにやっていました。

その店員を見ていて、
ふと思ったわけです。
「この人、楽しく仕事ができる人なんだなぁ」と。

世の中には、
どんな仕事でも楽しく
できてしまう人がいます。

いわゆる、
他の人にとって退屈で嫌な仕事でも、
「楽しい仕事」に変えてしまう人です。

そういう人にとっては、
あらゆる仕事が、
「好きな仕事」になり得る。

好きな仕事に就いている人は
素晴らしいけれど、
好きな仕事をつくれる人は、
もっと素晴らしい。

そう、僕は思います。

そんなことを考えていたら、
いつもは必ず食べるおしんこを
食べ忘れてしまいました・・・。
あああああ。

仮説ラボ。

広告制作の仕事をしていると、
どうしても、
完成品としての仕事が目に付きます。

でも、実は完成品の前段階で、
つくっているものがあるのです。

それが、「仮説」。

仮説とは、
「こうすれば、こうなる」という
予測の地図。

僕らは、広告をこしらえる時は
キャッチコピーから、
プロモーション企画全体の立案まで、
まず、必ず、この仮説を立てます。

自身の体験を含め、
可能な限りの裏付けをもとに描きます。

ほとんどが頭の中での作業になるので、
形には残りませんが、
この作業こそが、
実はとっても大事だと思っています。

何枚もの「予測の地図」があって、
その先に、クリエイティブが生まれます。

だからある意味、真空ラボは、
「仮説ラボ」である。
といってもいいかもしれません。

聞き流せない媒体。

一週間に4本収録。
ラジオCM制作づくしだった今週。

いろいろと
新しく気付く部分もあって
楽しかったです。

ラジオCMは、
「音」だけの勝負。

絵や光景の想像を、
聞く人にゆだねる媒体です。

しかし、だからこそ
母親のキモチから、宇宙人の声まで、
なんでもつくることができます。

これって、実は小説と同じなんですよね。

小説は100%イメージの世界。
読む人によって、
いくらでも広がり、変化していく。

ビジュアルがないからこそ、
無限の可能性がある。

これに音や
ナレーターのトーンが付いてくるわけですから、
広がりの速度はグンと増します。

制約の中にありながら、
その範囲の中であれば、
限りない工夫ができる。

どうもテレビの補足のように
受け止められがちなラジオCMですが、
ポッドキャスティングなど
未知なる音の世界が広がる昨今。

実は、これから新しい媒体の世界を
広げてくれるきっかけとなるのは
ラジオCMなんじゃないかと、僕は思っています。

短いほど、時間をかけて。

また、本の話です。

「また本の話かよ」と言われる前に
断っておきます。

僕には、本を読む時の習慣というのが
いくつかあって、
その中のひとつが、
「短い文章の本ほど、時間をかけて読む」こと。

良い小説も、良い詩も、良いエッセイも、
消費される作者のエネルギーは、
同じぐらいだと思うのです。

ちがうのは、
それが長い文章のかたちに生まれたか、
短い文章のかたちに生まれたか、だけ。

だから、
短い詩やエッセイは、
ついついサーッと
読んでしまいそうになるところを、
ぐっとこらえる。

文字だけでなく、行間まで、
そこに込められているエネルギーを、
ひっぱりだせるだけひっぱりだしたいと
いつも思って読んでいます。

たまに、小説などの長い文章でも、
それをやってしまいそうになるのが、
悪い副作用なのですが。

リアルをリズムよく。

ある人が、
ブログは「書きたくなった時に書くもの」で、
リズムで書くのはどうかなー。」
というようなことを言っていました。

確かに。

何かを思いついたり、ハッとした時に、
ばばばっと書き込み、
ネットで発信し、不特定多数に伝える。

その際に、発する言葉や文章は、
原稿用紙やノートの上でじっくりと
練られたものでなく、
頭からスッと出てきた感じがします。

脳からストレートに出てきた「声」は、
スピーディなのはもちろん、
嘘も介入しにくい。

それが、ブログの「リアルなたたずまい」を
生んでいるのではないでしょうか。

と、ここまで書いてきた僕は、
土日祝祭日以外、平日のみの夜に
ブログを書いています。
まさに「リズム」。

一日の中で、
気づいたこと、感じたことを覚えておき、
その日の夜にブログで発信しています。

感じてから文章化するまでに
時間がある分、
ストレートではないかもしれません。

せっかくの「ブログ」という機会。
できるかぎり、「リアル」を「リズム」よく
発信したいものです。

加速度。

先月末、トヨタ自動車は、
燃料電池を用いたハイブリッド車で、
水素(燃料)を途中の補給なしに
大阪〜東京間を完走したとか。

昔、「○○が完成するには000000年かかる」と
言われていたのに、
開発期間をグーンと短縮された話って、
けっこうよく聞きますね。

そこには、飛躍的な技術の進歩という
裏付けが存在します。

しかし、これって、きっと、
技術のことに限らないんじゃないかと
思うのです。

当たり前ですが、
技術だけじゃなく、
考え方やシステムなど、
いろんなものが昔と比べれば
着実に進歩しています。

やればやるほど、スピードが増していく。
いろんなものがつながりあって、
予想していたより早く結果にたどり着ける。

積み上げてきたからこそ生まれる「加速度」。

今日、お客さんとこんな話をしていました。
「ドラッカーは、日本は過渡期を迎えて、
 30年くらいでそれを乗り越えられるだろうって
 言っていたけれど、30年経ったらじいさんだよ」。

でも、もしかしたら、
30年もかからずに、
日本は新しい時代を迎えるかもしれませんね。

じいさんになる前に、素敵な日本を体験できますように。

本は、2度読める。

「あれ、一度読んだ時とは、
 なんだかちがう。」

昔読んだ本を、
しばらく時間をおいて再び読んだ時、
そんなふうに感じたことって、
ありませんか。

僕は、すごく、
よくあるんです。

小説でもビジネス書でも同じ。

昔読んだ時は
ぜんぜん面白くなかったのに、
読み返してみると面白かったり。
こんなこと書いてあったっけ?
ということがあったり。

まるで、
一度目は書いてなかった文章が
書き加えられているように。
不思議ですよね。

その本を読んでからの時間に
自分が成長したからなのか、
いろんな経験をつんだからなのかは
わかりません。

時間は限られているので、
いろんな本を読みたいのが普通です。
なかなか同じ本を
読む気にはなれない。

でも、
「あれ、評判の割にはぜんぜん面白くなかったんだよな」
という記憶がある本は、
ひょっとしたら
読み直してみると良いかもしれません。

今の自分を忘れないこと。

ちょっと前にここで、
「広告づくりには、
 そのサービスや商品を実際に体験することが
 大きな意味を持つ」
と書いたことがあります。

どうしても体験できないことは、
取材をして疑似体験しなければいけない、
とも書きました。

でも、最近、ある本を読んで
別のことにも
気付かされたんです。

それは、
「自分の心はどんどん変わっていくから、
 その時の自分の気持ちを
 覚えておくべき」
ということ。

過去の自分については、
「体験したこと」だから大丈夫。
というわけではないんですよね。

たとえば、
社会にでていなかった
学生の頃の心情は、
今とはまったくちがう。

あの時代の自分の気持ちを、
今もなんとなくは覚えているけれど、
もちろん細かくは覚えていない。

疲れたサラリーマンが歩いてる姿に、何を感じたか。
塾へ急ぐ子どもたちに、何を思ったか。
デジタル化の進む日常に、何を考えたか。

何気なく過ごしていると、
昔の自分の繊細に揺れ動いた気持ちは、
いつのまにか消えてしまうんです。

未体験のことは、
体験することを心がけるとともに、
今の自分の気持ちも
忘れずにいなければ、と思っています。

つくるものは、つくるひと自身。

先週末、
たまたまザ・タイムリー福井を見ていたら
ナナ・イロの2人が出演していました。

あいかわらず、
やわらかな口調と
ほのぼのした雰囲気。

ふたりが奏でるやさしいメロディって、
本当にこのふたりらしくて、
いいなぁと、いつも思ってます。
(別に親しいわけではありませんが)

でも、それだけじゃないってことを、
この番組で知ったのです。

それは司会の松枝さんに、
「夢を持てない若者が多い昨今」について
考えを問われたとき。

ナナ・イロのみちこさんは、
ゆっくり、ゆっくり、語りました。
「高い夢ばかりが
 夢ではないと思う。
 夢って身近にも
 たくさんあるんじゃないですか」と。

うろ覚えで申し訳ないのですが、確かこんな内容でした。

そういえば、昔の子どもたちの夢ランキング中には
「お嫁さん」とかもありましたよね。
今もあるのかどうかわかりませんが。

あまりにも、あらゆる情報がカンタンに入手できる今。
まさに夢のような、遠く離れた世界だって、
手に取るように感じられるようになった。
でも、そのせいで、身近にあっただいじな世界は、
逆に見えにくくなってしまっているのかもしれない。

みちこさんの言葉から、
そんなことを考えさせられました。
と同時に、ナナ・イロのふたりは、
世間に左右されないモノの見方を持っているから、
ああいう歌が歌えるんだなと思ったわけです。

作品には、本当の自分が出てしまうものだし、
ふだん考えていないことは、作品には表れないと思います。

本当にいい歌をうたう人は、いい人であるということ、

まちがってないと思う。

根を下ろすこと。根を下ろさないこと。

定年を目前に迎えた両親に、
こんなことを
言ったことがありました。

「セカンドライフは、
 別の土地にでも移って、
 新しい楽しみでも見つけたらどう?」

両親は、こう返答しました。

「せっかくゆったりできるからこそ、
 住み慣れた場所がいい」

新しい刺激や新鮮な出会いは
落ち着いた生活の邪魔になるからだそうです。

その時、昔、言われた、
ある言葉を思い出したんです。

何年か前、ある雑誌の仕事で、
お金の神様・邱永漢さんを
取材した際に言われたコトバ。

「裕福な暮らしを求める人が、
 いちばんやってはいけないことは、
 おなじ場所に、根を下ろすこと。
 人間には足があるのだから、
 運やお金が動いている場所へ、
 常に移動していなければいけない」

お金の動きは、
普通の人には制御できない。
でも、お金が流れている場所に
移動することはできる。

まるで正反対の、
落ち着いた生活と
裕福な暮らし。

本当に幸せなのは、どちらなんでしょうか。

コンビニのあいさつ。

僕は毎朝、
事務所に行く前に
近くのコンビニに立ち寄ります。

このコンビニの店員さんが
皆さんとてもほがらかで、毎日、
「おはようございます!」
「いってらっしゃい!」と
元気にあいさつしてくれる。

店員さんの輝くような笑顔に、
いつもうつむきつつ、小声で
挨拶を返す僕。

そんな無愛想さはさておき、
この「コンビニの挨拶」って、
人によって、
ずいぶん印象がちがうと思うのです。

コンビニという空間は、
不要なコミュニケーションをせずに
欲しいものが手に入れられる場所のひとつ。

一日中、誰ともしゃべりたくない時など、
自分を閉鎖していたい日の
買い物にはまさにぴったりです。

そういう人にとって、
コンビニでの挨拶は、
けっこう面倒くさかったりする。

でも、一日中、誰ともしゃべる機会のなかった、
心のどこかでコミュニケーションを
欲している人にとっては、
おそらくその逆です。

「おはようございます」とか、
「いってらっしゃい」とか、
コンビニでの、何気ない一言の挨拶が、
とてもうれしかったり、心地良かったりする。

コンビニがまず最初に都会で定着したのは、
きっと後者の必要性も関係したんじゃないかなって、
僕は思っています。

比較して伸びる。

自分を他人と比較しない、
オリジナルな生き方がカッコいい。
というような風潮が
けっこう昔からあります。

でも、最近この考え方に
ちょっと疑問を抱いています。

「今の自分が他人と比べるまでもなく最高」
って思っているということは、
すべてが最高点に達しているということ。

つまり、そこからの
成長もないんじゃないかと思うんです。

他人と比較することは、
決して悪いことじゃない。

ひょっとしたら
誰かに「憧れる」ことも、
比較の一つだと思うのです。

誰かに憧れることは、
がんばったり、くじけそうになったりと、
自分を磨く時間となる。

自分がより輝きたいとき、
もっともっと
自分よりすてきな誰かと自分を
比較するべきだと思うのです。

筋を通す。

「筋を通す」。

「道理にかなう」、
ともいいます。

コトバでいうのはカンタンですが、
行動であらわすのは、本当に難しい。

特に今の時代は難しいように感じます。

あらゆるものの流れが早すぎるから、
どうしても決断に失敗することがある。
その場、その場で、
答えを出していくのに、
いろんな障壁や誘惑やしがらみが、
決断を、鈍らせる。

気付いたら
いつの間にか、
筋を通せなくなってる。

「筋を通す」には、
「合理的な」という意味の他に、
「人の道にかなった」の、意味も含まれます。

理屈には合っていても、
自分の想いとしてどうか。

できれば、理屈にあっていなくても、
自分の思いについての筋は
いつでも通した行動を選択し、
決断したいと思います。

今日のブログ、
決して、安倍首相の辞意表明に
インスパイアされたわけではありません。
一応、念のために。

愛想笑い。

このごろ、
あまり「愛想笑い」というものを
していません。

笑ってごまかすことは
よくあるのですが、
気を使って笑うことは、
最近、していない気がします。

笑顔、爆笑、苦笑、
失笑、照れ笑い、微笑・・・。

笑いにはたくさんありますが、
この「愛想笑い」だけは、
正直な気持ちからくるものじゃない。

そこには、
「思いやり」や「気遣い」といったような
「愛想笑い」の必要性があるのだろうけれど、
できれば、しないで済むほうがいい。

「愛想笑い」をしないでいられる
今の環境があるのは、
きっと、働く環境や、
まわりにいる人たちのおかげ。

こっそり感謝しています。

そんなことを考えていたら、
ふと、昔読んだ
谷川俊太郎さんの詩を思い出しました。


「ほほえみ」

ほほえむことができぬから
青空は雲を浮かべる
ほほえむことができぬから
木は風にそよぐ
ほほえむことができぬから
木は尾をふり   だが人は
ほほえむことができるのに
時としてほほえみを忘れ

ほほえむことができるから
ほほえみで人をあざむく

生来、前向き。

マンガがアニメ化されると、
期待はずれに終わることが多いです。

期待はずれの対象となるのは、
登場人物の声や動きなど。

どうしてそういう状況になるかというと、
これは想像に過ぎませんが、
人は無意識のうちに「理想的」に考えてしまう
生き物だからではないでしょうか。

「この顔だったら、
 きっとこんな声で、
 こんな動きだろう。」

勝手に、理想的に考える。
だから、「期待はずれ」になる。

ラジオCMなどで、
断片的に情報を届けることが、
TVCMなどで多彩な情報を届けるよりも
好結果をもたらすデータがあるそうです。

これは、まさしく人の
「理想的」に考える性質を利用したもの。

生来、前向きな僕たち。
自分に対しても、
もっともっと前向きになれたらと、
ちょっとだけ思ってしまいます。

直感を、超えたい。

第一感。いわゆる「直感」。
広告制作の仕事をしていて、
新しい案件に出会った時、
まず、この直感の訪れることが多いです。

充分な情報収集ができていた場合に
生まれる直感は、自分で言うのもなんですが
まさに「ひらめき」に近くて、
スッと抜けた感じがします。

でも、たいがいは、そこから、
「まだ時間もあるし」と、
うんうん考えはじめるんです。

アレコレあれこれと、
新しい情報を追加して、
新しい答えを探していく。

けれども、なかなか、
最初に生まれ出た「直感」を、
超えることができないんです。

いくつもいくつもアイデアを
ひねり出すのだけれど、
「直感」を超える答えは、出てきません。
どれも、まちがってはいないのかもしれないけれど、
「直感」超えられない。

そんな時、思い出すのは、
「結局、最初に考えたアイデアに戻るんだよね」
というコトバ。

それがまちがっているとは思わないけれど、
ちょっぴり、どこか言い訳しているようにも聞こえます。

できれば、直感を超えたい。

そんなふうに思いながら、
二度目の「直感」、いわゆる「第二感」が生まれるのを、
手と頭を動かしながら、且つ冷や冷やしながら、待っているわけです。
(クライアントのみなさま、いつもギリギリまで待ってくれて感謝してます)

フラットでいる努力。

先日、
とてもフラットな方に会いました。

けっこう高齢で、肩書きにも、
重々しい言葉が連なっているのですが、
口調からは、そういったものを感じられない。

何より、話していることが、
丁寧でわかりやすい。

これは、常に相手の立場で、
物事を考えているからなのだろうと
推測するのだけれど、
なかなかできることじゃないと思うのです。

人は、ついつい人を、
見下ろしたり、
見上げたりしてしまう。

今いるポジションや、
世間の評価に合わせて、
自分の立ち位置を上下させてしまいがちです。

自分の立ち位置を、
一定にフラットに保っている人は、
相手に合わせて立ち位置を変え、
眺めることができます。

だから、物事の本質を見逃さない。

一方、まわりからの見られ方で
自分の立ち位置を変えている人は、
自ら立ち位置を変えられなくて、
物事をフラットに眺めにくい。

上からか、下からか、
視点に角度がついてしまうように思えます。

常に、冷静に
状況を見るためにも、
相手の立場になるためにも、
フラットな視点を心がけたいものです。

初めに想像ありき。

広告の仕事というと、
「全く何もない0(ゼロ)の状態から創りあげる仕事」
のように受け取られることが多いです。

いわゆる「創造力」。

確かに「創造力」は必要ですが、
それ以前に必要であり、重要なのが、
「想像力」だと思うのです。

「創造力」が、
何もないところから
初めてつくり出すことであるのに対して、
「想像力」は、イメージすること。

トイレを汚してしまって、
(あ、食事しながら読んでいた方、ごめんなさい)
後に入る人が気分悪くならないように
ちゃんと掃除してから出る。

そういうことが想像力であり、
何かをつくる前に、
まず大事なのではないかなと、思います。

言ってみれば、
「思いやり」に近いかも。

これをしたら、
あの人はどう思うだろう。
どういう行動をとり、
どんな結末を迎えるだろう。
というような感じです。

これは広告の仕事だけのことでは
ないかもしれませんね。
あらゆる仕事にあてはまる。

人のココロに何を与えるかを想像し、
それから、
そのために必要なものを創造する。

「初めに言葉ありき。」
とは、新約聖書の言葉ですが、
「初めに想像ありき。」こそ、
仕事における福音ではないかと思います。

価値という生き物。

オーガニック風レストランというものを
よく見かけるようになってから、
しばらくがたちます。

オーガニックレストランとは、
いわゆる、有機・無農薬栽培にこだわった素材で
料理を提供しているレストラン。

「風」といっているのは、
有機・無農薬栽培まではいかないけれど、
それに近いものを目指しているお店のことも
含めたかったからです。

お店には、
畑でとれたばかりの新鮮な野菜を中心に、
カラダにいい素材がたくさんある。

自分の健康についてや食育についても
考えさせられるから、
きっと、からだにも、頭にも、健康。

そのせいか、
けっこう高めのお値段設定でも、
味やサービス、立地環境などが悪くなければ、
たいがい、お客さん受けもいいみたいです。

一方、焼き肉屋とかフレンチとか、
ちょっと前までは「高い」値段の代表だったお店の中に、
最近、リーズナブルに楽しめるようなお店が
ふえてきました。

不思議ですよね。

昔は当たり前に家庭で食べていた
畑の素材を使った料理を、
高いお金を払ってでも食べたいと思う私たち。

その反面、昔は高級とされた料理が、
安く食べられるのに、
そんなに違和感を覚えていないのも私たち。

もちろん、
その状況の裏には、自然環境の変化だとか、
現代人の健康への思いなどがあるわけだけれど、
「価値」ってなんだろうと考えさせられます。

健康食材の次は、
僕らはどんな料理にお金をかけるように
なっているんでしょうか。

残暑見舞い申し上げます。

というハガキが届いて、
ちょっと「ん」と思いました。

残暑。いわゆる残りの暑さ。
これってどんな基準で
決まっているんだろう。

「暑」っていうからには、気温かな。
とかなんとか思いながら、
仕事のあいまにいろいろネットで調べてみました。
(あいまは、つくるもの)

しかし、調べ方が足りないのか
「気温」では、出てこない。

しょうがないので、「期間」で検索。

「残暑」とは、立秋から秋分まで、
つまり、8月8日から9月20日までのことらしい。

ようするに、
この期間に「暑い」と感じれば、
それは残暑だったみたいです。

きっと、昔は、
今ほど暑くなかっただろうから、
「夏の暑さがまだ残ってるわ」てな感じに
なったのでしょうね。

「末暑」と言わなかったところが、
なんとも風流。

しかし、今では、
そんな悠長なことを言ってられません。
もう、「末期暑」。

残暑にお見舞いをしないといけない相手は、
人ではなく、
地球そのものかもしれないですね。

見られる仕事。

先週、機会があって、
とある警察署の中に入りました。

受付の横を通り過ぎ、事務室へ。

並んでいるデスク。
どれもが「使い過ぎ」な年季モノばかり。
至る所がガムテームなどで
補修されています。

床もボロボロで、
歩くたびに、ミシミシ聞こえる。

ある人のデスクまで行くと、
「はい、これに名前と住所書いてください」と
言われて、ボールペンを渡されました。

が、このボールペンがまたすごかった。

割れた部分を
セロハンテープで
直して使ってる。

うひゃあ・・・と思いながらも
手続きをすませて(何のかは言いませんが)
外に出たわけですが、
建物をふりかえりながら思いました。

警察は、ほんと、見られる仕事、だなぁと。

「パフォーマンスをしてる」と
言っているわけではありません。
見られていることを強く意識しなければいけないのが、
警察の仕事なんだということ。

こうして、質素に働く姿を見せる彼らは、
道路では、犯罪を抑止するために
パトカーで走っている姿を見せる彼らでもあります。

見せる仕事というと、
モデルやタレントや俳優を思い浮かべるかもしれませんが、
警察もまた、
「見せる」ことで仕事をこなしているんですよね。

もちろん、
警察の方々がみんなそうではないでしょうが、
こういう人たちもいるということ。

細やかな勝機に気付け。

今年の高校野球。
我らが福井の代表・福商は
残念ながらすでに甲子園を去ってしまったけれど、
ひとつ、気になる学校があります。

それは、「興南高校」。
沖縄からやってきた彼ら。
実は、甲子園などという大舞台からは
ずいぶん遠ざかっていたチームでした。

しかし、今から15年前に同チームを
4強にまで連れて行った当時のキャプテンが、
監督として舞い戻り、
今年、チームを復活させたらしいのです。

もちろん、厳しい練習は当たり前に
やってきたのでしょうが、
普通に練習しているだけでは
なかなか行けないのが甲子園。

興南高校が夢の舞台に立てたのは、
ある秘策の成果でもあるそうです。

それは、
「朝の散歩」
「部屋の掃除」
「きそく正しい生活」。

どれも野球には直接関係のないことばかり。
でも、これらをすることで、
野球の内容が明らかに変わりました。

朝の散歩。
実はその時間って、昼には出会えない
いろんなものに出会えます。

朝しか咲かない花、鳥の声、
見たことのない空の色、そっと肌に触れる風・・。

朝しか見れない、
いろんな細やかな表情に気づくことは、
グラウンドで細やかなことに気づくことに
につながったそうです。

掃除も規則正しい生活時間も同様。

細い変化に気づくこと。
それは、従来まで
見逃していた細かい勝利のチャンスに
気付くことだったのかもしれません。

大は小を兼ねる。ではなく、
小は大を制する。

いろんなことにあてはまりそうです。

理由があって。

福井市に「舞屋」という地区があります。

「そのむかし、洪水があった時に、
 家が水の中をくるくるくるくる回ってて、
 その光景を見た人が名付けたんだよ」

この地区に取材で足を運んだとき、
ある人が、そう言っていました。
ウソかホントかはわかりませんが。

でも、思ったわけです。
すべての名前には、
理由があるということを。

人の名前だけじゃなくて、

建物の名前。
地区の名前。
会社の名前。
道具の名前。
食べ物の名前。
川の名前。
部署の名前。
・・・・・・。

人が付けた
いろんな名前には、
それぞれ理由があって、
由来とか素材とか願いとかが、
込められています。

理由のないものが
一つぐらいあってもいいんじゃないかと
思うのですが、見あたらない。

「深い意味はないんだけどね。」と言いつつも、
何かが出てくる。

「気分だよ」と言いつつも、
気分の中には、何かがあった。
忘れてしまったかもしれないけれど。

人間にとって名前は特別。

だから、本当は、
「名前には、理由がある」ではなく、
「名前には、理由がいる」なんだろうと思う。

しかできないこと。

以前、読んで、
とても好きになった漫画が、
映画になりました。

「夕凪の街 桜の国」。

物語についての批評は、
いろんな方がやってらっしゃるので、
ここでは控えさせてもらいます。

僕が漫画を読んだ時に感じたのは、
漫画しかできない表現が
ちりばめられている、ということ。

原爆という遠い過去になりつつある事件を
近代に生きる女性2人が、
読者に、今も生きる共感として伝える。

そのために、原作者が最初に必要とした媒体は、
きっと漫画じゃなくてはいけなかったんだろうなぁと
思うわけです。

心情と一緒に揺らぐ線。
囁きの声のような場面描写。
きっと文節やカットでは表せないコマ割。
当たりまえかもしれませんが、
漫画にしかできない表現でつくられた
物語の世界が、そこにあったような気がします。

そして今、映画化されたわけですが、
漫画をなぞらえるだけでなく、
「映画だからこそ」の部分があったらいいなと、
観に行く日を楽しみにしているところです。

そんなことを考えながら、
日常に戻ると、
制作領域がノーボーダーになるなかで、
いま「コピーライターにしかできないこと」ってなんだろうと、
ふと思ってしまう自分がいます。

人生3万日。

会社をつくって、
4ヶ月がたちました。

ボク自身としては
まだそれだけしかたってないのか、という感じ。
社外のみなさんから見て、どうなんでしょうか。

忙しかったり、
楽しかったり
といった「濃い」時間を過ごすと
時間が過ぎるのが早く感じられる。というのは、
よく聞きますよね。

この4ヶ月、決して薄かったはずはないんだけれど。

そんなことを思っていた時に、
何かの本で「人生3万日」というフレーズを目にしました。
(平均82歳ということでしょうね)

「3万」と聞くと、長いように感じますが、
ボクは今年で32歳なので、
すでに1万1680日が終わっていることになります。
いや、誕生月からすでに3ヶ月と8日終わっているから、
1万1781日(うるう年のことはこの際、忘れる)か。

あと1万8219日。(だいたいですが)

そう考えると、
死ぬ日までの緻密なスケジュールも
立てれそうな気がします。

ところで、真空ラボは、何歳まで生きるのか。
まだ120日しかたっていないこの会社、
社生1万日にするのも、1000日にするのも、
自分たち次第。

こちらの場合は、
日にちではなく、目標で立てるスケジュールが必要なようです。
「濃い」時間がしっかりと結果につながるような、
スケジュールを。

おっと、こうしている間に、また1日。

夏の終わり。

梅雨は、
明けたのか、明けていないのか。
あいかわらず天気予報は曖昧なまま。

でも、見るからに空は、
これからいよいよ本格的な夏を
迎えるような表情。

そんな中、
僕にとっての夏は、
今年も、世間のみなさんより
ちょっと早めに終わった感じです。

10日前の21日から始まった福井県高校野球大会。
昨日、決勝戦が終わりました。
大会にあわせて放送されていた
FM福井「夏、甲子園」も、いろいろありましたが、
一応、終焉を迎えました。

聞いたことのある方も
そうでない方もいると思いますが、
この番組では、試合に負けたチームを取材します。

2年半という時間、
野球一筋に打ち込んできたにも関わらず、
栄光を見ないまま夏を終えていく少年たちに、
ちょっとだけスポットライトを当てる。
そんな番組です。

そこには、高校野球を通して、
教育や、人のつながりなど、
今の時代のいろんなものが、
ほんの少しだけ見え隠れします。

毎年のことなんですが、
編集する僕たちにとっては、
いつもたくさんのことを
学ばせてもらう時間となります。

知ることが多いからかどうかは
わかりませんが、
この番組が終わると、まだ7月末だというのに、
夏の終わりを感じてしまう自分がいます。

終わってから番宣をしているようで
変な感じですが、
きっと来年もあると思うので(?)、
もしよかったら聞いてやってください。

来年も、
いい夏が訪れますように。

旬。

ごめんなさい。
別に旬な話をするわけじゃないんです。

先日、美容室に行って、
そこの美容師さんとの会話にのぼった話題。

その人は、
あんまり海とか山とか行かないみたいなんですが、
一年に一度は、家族をつれて、
二泊三日ぐらいでキャンプに出かける。

いろいろ道具は持って行くけれど、
食料は初日分だけ。

「なぜですか?」と聞いたら、
「腐っちゃうだろー」って、
笑って返答されました。

そりゃそうですよね。
冷蔵庫が無いから、
新鮮なうちに食べないといけない。

でも、これって言い換えたら、
冷蔵庫が無ければ、
新鮮なものが食べれる。
ということ。

もしかしたら、
キャンプで食べるものが美味しいのは、
外で食べる開放感のせいもあるけれど、
新鮮だから
美味しいのかもしれません。

さらに、
朝、昼、晩と、
太陽の動きに合わせて食べるから
美味しいのかもしれません。

世の中にある便利なものは、
自然の時間から
僕らの生活を解き放ってくれたけれど、
僕らはそれに満足しきれなくて、
ときどき自然の時間に帰りたくなる。

ほんとの贅沢は、
いったい、
いつになったら見つかるんでしょうね。

その夜は、
コンビニごはんで済ませずに、
無理して旬な食材をスーパーへ
買いに行ってしまった僕でした。

冷たいおにぎり。

「おにぎり」と言われて、
あなたはどんなおにぎりを連想しますか。

僕といえば、
ちょっぴり悲しいことに、
すぐさま、
コンビニのおにぎりを
思い浮かべてしまいました。

昔なら、
のりが「しな〜っ」っと
ご飯にへばりついた
我が家特製のお弁当おにぎりだったんですが。

言葉自体は変わらないのに、
言葉からイメージするものは
時がたつにつれて
変わっていく。

そういうものって
たくさんあります。

たとえば、
「勉強」
「野菜」
「本」
「スポーツ」
「家」

きっと10年前とは、
ずいぶんとイメージが変わってる。

同じものを眺めていても、
同じように見えない。

いつの間にか、
ちがうものになっている。
不思議です。

逆に、
変わっていないものはあるでしょうか。

もしあったら、
それはあなたにとって、
ものすごく大事なものかもしれないですね。

奥ぶばい。

今日のランチはラーメンだった。
ハセガワさんといっしょに近所のお店へ。
いつも混んでいる印象のあるお店だけれど、
今日は、それほどでもなかった。ぱら、ぱら。

なんとなく迷って、
「チャーラー定食を2つ」
と注文すると、
しばらくしてチャーハンとラーメンが運ばれてきた。
「おいしかった」
とグルメリポートを書くつもりはないので、
味の感想は無し。

伝えたいのは
その後のこと。

レジでお金を払ったら、
元気なあんちゃんから返ってきた言葉が、

「あり〜ぞ!」

は?
今何をいったんだ彼は!!
何をどう短縮化したんだ!?

「ありがとうございますぞ」
「ありが〜ぞ!」
「ありがとうございました、またお越し下さいぞ!」

・・「ぞ」がわからない。

しばらく悩んでいて、
やっとわかった。
たぶん
「ありがとうございました!またどうぞ!」だと。

自分を無理矢理納得させた。

最近、なんでも短縮されちゃうけれど、
伝わってなんぼだろう。と思った。

え。

いや、ほんとの話ですって。

時間貯金を、おろしに。

近頃、一日の終わるのが早い。
というか、早すぎる。

朝、事務所に出勤して、
最初は、わりと落ち着いているのだけれど、
正午に向かうにつれて、
時の流れはその速度を増していく。

もうこんな時間だーと、
昼食を済ませ、
「ふう・・・」と息をつくのも
ほんのつかの間。

お客さんや
社内スタッフとの打合せをこなしているうちに、
気づくと日が暮れ始めている。

まずい!とキーボードをたたき始めるのだが、
ビュンビュン走る時のスピードは、
もうすでに、
引きとめることのできない状態。

そして、そして、と
言っているうちに、夜。
で、今。

公約である(自分で決めて、自分で破っていますが)
午後8〜10時までの
ブログ更新時間を
すでに5分過ぎている。

充実しているのか、
記憶喪失なのか、
タイムマシンにでも乗ったのか。

もし、
これまでの人生で
貯金してきた時間を
使うことができるなら、
いますぐおろしに行きたい。

父も、生まれる。

めでたい。
今日、仕事仲間の
子どもが生まれました。

彼は昨日鉄矢で、いや徹夜で
出産に付き添っていたらしく、
今日の昼過ぎに、お祝いを直接言った時には、
すでにふらふら。

でも、子どもが増えたことで(2児に)、
いっそう父親らしくなったような
気がしました。

いつも思うのですが、
人は、何のきっかけもなく
自分から変わることはなかなかできない。
だけど、
自分のポジションに相対的な変化があったとき、
よほどのことがない限り、
ちゃんと変わっていく。

その代表的なシチュエーションが、
「親」なんじゃないでしょうか。

戸籍上は、
子どもを産んで届け出をすれば
その瞬間から親になれるけれど、
「親らしい」親には、そんなカンタンにはなれない。

子どもが生まれた時に、
よちよち歩きの「親」も生まれ、
子どもを育てながら、
ゆっくりゆっくりゆっくり、
立派な「親」になっていく。

これって、
いろんな肩書きにも
当てはまることなのかもしれません。

どうしても
自分を変えたかったら、
自分のポジションを変えよう。
ということでしょうか。

なにはともあれ、
子どもが生まれたのは、めでたい。
がんばって、立派な2児の父になってくださいませ。

無口は、語る。

僕は、仕事柄、
けっこう、よくしゃべります。
何かを伝えるために、
必死でしゃべります。

でも、しゃべらないほうが
伝わるときもあるのです。

あれは、
何年か前のこと。
初めて会うクライアントとの打合せでした。

その日は、
なんだか朝から胸焼けがして、
頭も痛くて、
どうにもこうにも
熱く語り合う気分にはなれませんでした。

席について、
とりあえずお話を聞く。

しかめっつらをしながら、
ふむふむというそぶりをしてみるものの、
頭が回っていない。

それでも、
投げかけられる問いへの返答や、
聞いておかなければという質問を、
片言ずつ、片言ずつ、
頑張って口に出す。

本当に、「ふりしぼって」出す感じで。

そして、なんとか打合せは終わり、
クライアントに申し訳ないことをしてしまったと
落ち込んでいると、
後ろから「さすがですね」の声。

「は?」と、
まさに鳩が豆鉄砲の僕。

「一言一言に深みがあるなぁ。」
とクライアント。

立て続けに
豆鉄砲をくらった僕は、
その威力に「は、はぁ・・」と
苦笑いして帰途につきました。

今でも、たまに、
というか最近特に、
何かしゃべった後に
「気持ちこもってないねぇ」と
誰かに言われると、
あの時のことを思い出します。

しゃべらないほうが、
伝わるお話。

雨。

大人になって、
子どもの頃に嫌いだった食べ物が、
好きになることがあります。

同じように、
天気の好き嫌いも、
子どもの頃とは若干変化している自分に
最近、気づきました。

今、梅雨まっただ中ですが、
僕は、それほど雨が嫌いじゃない。

雨が降ると、
なんとなくどこかにこもっている感じがして、
気持ちが落ち着く。
仕事に集中できる。

どんより灰色の雲も、
見方によっては
結構キレイに見えたりする。

でも、昔は本当に雨が嫌いだったんです。
もう、ザーッと降ってる外を見るたびに、
憂鬱。憂鬱。
イライラ、イライラ。
気分まで悪くなる。

それが、ここまで変わったのは、
きっと、今の暮らし方とかに
理由があるのだと思う。

こんなふうに
毎日の過ごし方を変えるだけで
モノへの見方が変わる。

だとすれば、
今、嫌いなモノの中には、
今からでも
好きになれるモノがあるかもしれない。

好きなモノが増えるのは、
毎日の中で
好きな時間が増えるということだと思う。

窓ガラスの、
きらきら輝く水滴を眺めながら、
そんなことを考えた梅雨の日です。

埋めるためのタイムカプセル。

先日、久しぶりに
小学校の同級生に会いました。

で、まぁ、つもりつもった話を、
あれやこれやと
下ろして、
広げて、
つみなおしていったわけです。

その中で、
卒業時にみんなで埋めた
タイムカプセルの話になりました。

まぁよくある話で、
みんな、将来の夢を、
それぞれに絵や言葉で画用紙などにかきこみ、
カンカンに入れて、校庭の隅に埋めたんです。

「あれって、まだ埋まってるのかなぁ」と
同級生に投げかけると、
返って来たコメントが、

「あ、もうないよ」

あぜんとしました。

しかし、よく聞いてみると、
埋めた場所に新しい建物が建っているとか。

ちょっと寂しい気もしましたが、
確かに、
埋めた場所にも
時が流れているわけです。

「いつかみんなで開けて、
 あの頃に戻ろうね」
というふうに都合よくはいきません。

でも、開けずに終わるタイムカプセルって、
けっこう多いのではないでしょうか。

もしかしたら、タイムカプセルは、
埋めるためにあって、
開けるためではないのかもしれませんね。

「大人」に異を唱える「若者」。

反骨が、文化をつくる。

最近、あるショップの店主に取材をした際に、
痛烈に納得してしまったこと。

以下はその内容の一部。

・・・・・

大人に対して、
それはちがうだろ。
と言うことで、新しいファッションが生まれる。

まちがってるとか、
まちがってないとかは、
関係ないんだよね。

ファッションの場合、
自分が間違いないと思えば、
それは正解なんだ。

今の若者たちが、
同じような服を着がちなのは寂しい。
新しい文化は、
そこからは生まれないから。

・・・・・

きっと、ファッションだけじゃないと思う。
文化や歴史は、
反感を買うことから始まっているものが多い。

でも、それを乗り越えて、
ゆっくりと共感を生んでいくことで、
ひとつの常識が生まれる。

すでにあるカテゴリーの
居心地のよさに慣れすぎると、
そこから出て、
新しいものをつくることができなくなる。

陥らないように気をつけなければ。

いつまでも、「大人」という、
既存の文化に異を唱えていける
「若者」でありたいです。

限度はありますが。

昔の人が残した言葉には、
不思議な説得力があります。

「病気は、気から。」
というのも、そのひとつです。

最近、
精神的にしろ
身体的にしろ
しんどい時ほど、
元気を出すようにしています。

俗にいう「から元気」なんですが、
どんな栄養ドリンクより
効き目がある。(気がする)

「大丈夫、まだまだいけるぜ!」と
弱った自分にウソをつく。

からだやココロは、
「ウソだ!こんなにへろへろなのに・・・」と
つぶやく。

それでも、
「いや、ほんとに元気なんだぜ!」と
ウソを突き通すんです。

すると、
「そうかも・・・」って。

でも、ちょこっと反論。
できるならばポジティブに
こう言いかえたい。

元気は、気から。

07-06-27_20-32

(虎)

初心。

しばらく
ブログを書いていなかったら、
久しぶりに会った人に
「相変わらずいそがしそうだね」と
言われました。

書かないでいる時に、
多くの人が見てくれていることを
知ったというのが、
なんとも皮肉なわけですが。

そこで決めました。
真空lablogは、
毎日8時から10時の間にアップします。
(あー・・・言っちゃった)

制約がないと
行動しないこの体質を
何とかしなければと思う今日この頃です。

ところで。

夏。
また、この時期がやってきました。

FM福井「夏、甲子園」の季節。

県の高校野球で負けたチームを取材し、
3年間がんばってきた球児たちへ、
エールを送るというFM福井の番組の制作に、
3年前から携わらせていただいています。

この番組の仕事は、
独立したての頃に始めたという理由もあって、
毎年この時期になると、
初心に帰る自分がいます。

伝えたい人がいて、
伝わった人が喜んでくれる。

そんなコミュニケーションの基本が
しっかりと体感できる仕事。

去年一年間でこびりついた
いろんな垢をしっかり落として、
新しいステップに向かいたいな、と。

人は、いつでもスタートに戻れる。

ということで、lablogも、
振り出しに戻ったつもりで
書く書くしかじか。

誰もが持っている、すごいもの。

他の誰も持っていないもの。
永遠に古くならずにいられるもの。
世界一になる可能性を秘めているもの。

どの人も、どの会社もほしがる、
これらのものが、
どの人にも、どの会社にもあることに、
最近気づきました。

ご存知の通り、福井には、
BtoBの会社がたくさんあります。

その中には、
世界を驚かすような開発を行っている会社が
実は、いくつもあることをご存知でしょうか。

福井という地方にいて、
すごい機械があるわけでもなく、
すごいお金があるわけでもなく、
すごいバックがついているわけでもない。

そこにあるのは、
何かできないか?という
探求心から生まれた
「アイデア」だけ。
もし、もう一つあるとすれば
情熱に応えるように訪れた、
「チャンス」でしょうか。

ものすごいアイデアは、
世間では常識になっている
「工場は中国」という言葉さえも、
ひっくり返しているらしい。

でも、よく考えてみると、
なんのことはない。

それらのアイデアは
誰もが同じように持っている脳から
生まれている。

当たり前のことだけど、
すごい。

読書。

読み方は、
時間の活かし方。

僕は本を読むとき、
内容によって読み方を変えています。

小説などは、じっくり、ゆっくり、とっくり。
行間も楽しむつもりで文字を追います。

絵本とか詩集など、
短い文章のものほど、
時間をかけたい派です。

対してビジネス書は、
何のために読むのかを決めて一気に。

まるで道具箱の中から欲しい道具だけを
探すかのように、読みます。

そして、読みながら、
マインドマッピング。

せっかく読んでも忘れてしまっては
意味がないので、
できる限りポイントが
頭の中に残るように努力します。
(それでも、しばらくたつと忘れてしまうんですが。)

読んでいる時間自体を楽しむか、
読んでいる時間を縮めて、
他のことに時間を使うか。

目的に合わせて読み方を変えると、
読書の時間はもっと効果的になると思います。

といっても
だらだら読みも大好きなんですけどね。

制約は、武器をくれる。

人を含む生き物は、
ある制約やルールの中にいると、
その中で生きていくための術を身につける。

いわゆる、順応です。

でも、
順応を超えると、
それが武器になる場合もあるのでは、
と思います。

たとえば、
僕らの仕事である広告では、
コピー、デザイン、写真、イラストなど
いくつかの要素が組み合わさって、
ひとつの制作物ができる。

でも、
予算の制約があるから、
いつも写真が用意できるわけじゃないし、
いつもイラストが用意できるわけじゃないし、
いつもコピーが用意できるわけでもない。

そんな時、デザイナーは考える。
「デザインだけでなんとかならないだろうか。」

そう考えたデザイナーは、
自分で用意できる素材だけを使って、
仕事をこなします。

これを続けていると、
デザインだけで仕事を切り抜ける術を身につけます。
そしていつかその「術」は
自分だけの「技術」となる場合もある。

制約を与えられることは、
前向きに捉えさえすれば、
新しい武器を得るチャンスを与えられている、
と言えるかもしれません。

増えるほど、早くなる。

しばらく、
ブログを書かずにいました。

「今日は忙しかったからいいや。」
「明日プレゼンだからしょうがない。」
「仕事優先。」

とか言って、
忙しいということを理由に、
ブログをさぼっていました。

本当はきっと、
忙しい人ほど、日記やブログなどを、
しっかり書いている。

そうすることで、
頭を整理し直して
いるように思えます。

だから、
ますますスピードアップする。

仕事が増えれば増えるほど、
仕事が速くなる。
そんなふうにならなきゃね。

なんて自分にいい聞かせながら、
久しぶりにブログを書く僕でした。

(とら)

幸せ。

今日、コンビニのトイレに行って、
とても幸せになりました。

いや、
用を足したことがではなく、
(それももちろんですが)
トイレが、あまりにキレイだったんです。

想像以上にぴっかぴか。

トイレットペーパーも
しっかり三角に折ってありました。

僕が思うに、
幸せには、
二つあると思うんです。

「してもらう幸せ」と、
「してあげる幸せ」。

前者は当たり前ですね。

でも、
後者は、ちょっと違う。

自分がしたことによって、
幸せになる人を、
思い浮かべたり、想像することで、
自分が幸せになる。

これって、
サービス精神そのものではないでしょうか。

目先の利益ばかり求める行うサービスは
なかなか相手に伝わりにくいけれど、
相手の幸せが幸せって思えるサービス(まどろっこしいなぁ)は、
けっこう、伝わるんですよね。不思議。


肝に銘じておきたいです。
仕事上においても
普段の生活においても。


しかし、

いま思い出しても
きれいなトイレでした・・・・。
また行こう・・・・・・。


(とら)

メモ。

記憶を残すってことは、
毎日をだいじにすることの
一つかも。

そう思わせてくれたのは、
メモ。

僕はメモ魔ではありませんが、
たまに「お、これいいな」と
思う瞬間に出会った時、
ケータイなどに書き留めます。

なぜなら、
その時にすごく印象に残ったことでも
しばらくたつと、なぜか、
スカッと忘れるから。

もう、見事なまでに。

よほどの事件や
ハプニングでないと、
忘れてしまう。

でも、実は、
日常の中で「おや!」と
感じることってたくさんあると
思うんです。

それは後に、
いろんな形で生きる。

今日、たまたま、
以前にとっておいたメモが、
仕事に生きました。

そう考えると、
毎日を何げなく過ごしているのって、
すごくもったいないような気がしてくる。

(とら)

モノづくり。

モノづくりとは、
メッセージづくりではないかと、
ときどき思います。

今日、ある職人の
取材を行いました。

その人たちは、
常に納得のいくものだけを
商品として世に出します。

満足できないものは
決して認めたりしない。

微々たる違いも見逃さず、
何度も何度も作り直し、
求めるものだけを形にします。

まるで、
自らの伝えたい言葉を、
目に見える、触れることのできる、
「モノ」に置き換えるように。

それが確かな言葉と
なっているかどうかは、
多分問題ではありません。

感覚的に
伝えたいメッセージがあり、
それを自らがつくるモノに込めていく。

だから、職人と言われる人々がつくったモノは、
眺めているだけで、何かが感じられたり、
何かが聞こえてきたり、
何かが見えてきたりするんじゃないかと思うんです。

広告という
モノづくりの一端に携わる者として、
職人の方から、
常に、いろんなことを教わります。

(とら)

朝仕事。

日が昇るのが、
しだいに早くなってきた今日この頃。

早起きして行う仕事が、
気持ちいい季節に
なってきました。

どうしても、
遅くなりがちなこの仕事。

しかし、
早朝のほうが、
頭がよく働く事実に、
一年程前、気づきました。

といっても、
前日の就寝も
早くないといけませんが。

どこかで聞いた話では、
睡眠というものには、
寝る前までに得た情報を
整理する作用があるとのこと。

盛りだくさんに詰め込んだ情報を、
きれいに並べてくれた頭に応えるように、
スピーディに仕事したいものです。

セカンドライフ。

誰かが
3億円かせいだとかいう、
バーチャルワールドの話ではなくて。

数年前から、
新しい生き方として、または、
新しい市場として、騒がれている、
定年後の人生のお話です。

ハッピーリタイヤ後は、
ガーデニングや旅行など、
趣味を満喫して過ごす生活が待っている。
なんて、多くの広告は煽ってる。

ちょうど僕の親も団塊世代。

だけど、
広告が打ち出す世界が、
実際に彼らの前にあるかというと、
最近、とても疑問を覚えてしまう。

たまに旅行に出かける両親は、
確かに楽しそうではあるけれど、
しんどそうでもある。

自由な時間は戻ってきても、
自由に動ける体力が戻ってくるわけでは、
もちろん、ない。

満足のいく楽しみは、
満足のいく体力に宿る。

お年寄りが
孫をやたらかわいがるのは、
単に、自分の血が通っているから
というだけではないように思える。

セカンドライフって、
何でしょうか。

バーチャルワールドのそれの方が、
よっぽどリアルに見える。

(とら)

勢い。

勢いのある人間が、
強いのはなぜだろう。

先日、脂の乗っている
いわゆる「ピーク」の人に出会った。

ただひたすらに、
やりたいことを追い求め、
突っ走っている人。

勢いがあるから、
リスクや困難など
全く考えたりしない。

いや、
リスクや困難が、
勢いのある人間を
避けていく、
と言った方がぴったりくるかもしれない。

僕が出会った
その人の年齢は50代だった。

どうやら
勢いに年齢は関係ない。

大事なのは
よけいなことを考えず、
ただひたすらに追いかけられるものが
あるかどうか、なのかもしれない。

できれば自分も、
ずっとそうありたいと思う。

(とら)

毎日を新しくする方法。

ちょっと視点を変えるだけで、
ふだん見なれているものが、
ちがって感じられることってありませんか。

最近、事務所の近くに駐車場を借りて、
朝はそこから歩いて出社している僕。

車の運転席からでは
見えなかったものが
目に入るようになりました。

ありがたいことに、
事務所からそんなに離れているわけではないので、
3分ぐらいの徒歩時間。

でも、充分な効果をもたらしている気がします。

「この文房具屋、かわいい看板掲げてたんだなー」、とか、
「この家って、不思議な敷地に建ってんなー」、とか、
「このビル、シャッター掃除しなきゃ(あ、弊社ビルのことです)」、とか。

新しいビルに移ってから20日間が経って
しだいに通いなれてきた道が、
また新鮮に見える。

仕事柄、変化に富んだ日常には
恵まれているけれど、
事務所への行き帰りなどは
ついついルーチン作業になりかねない。

ときどき新しい視点で眺めると、
かんたんに新しくできる。

不思議です。

(虎)

消えない事実。

「なかったことに。」

よく使われる言葉だけれど、
すごく自分勝手なコトバだと思う。

何かをおこなったり、
言ったりした事実は、
消えたりなんかしない。
だって、過去へは戻れないのだから。

「なかったことに。」と
言っている人だけが、
自分の中から事実を削除しようとしてる。

正しくは、
「中止にしました。」だと思う。

コトバは便利だけど、
時に不誠実さを
ごまかす道具にもなったりする。

自分も気をつけなくちゃ。


あ、わが事務所にシュレッダー君が来ました。
事実を消す為に、ではなく、
事実を責任もって廃棄するために。

シュレッダー

(虎)

印象。

春。

節目となるこの季節、
会社も立ち上げたことだし、
見た目も変えてみようか・・・。

そんなことを思ったきっかけは、とあるプレゼン(競合)でした。

前日徹夜で仕上げた内容をひっさげ、
クライアントのところへ。

会場となる部屋へ向かっていると、
プレゼンを済ませた競合が、
ほっとした表情でこちらへ歩いて来ました。

(やばい。負けたかも)
すれ違う瞬間、そう思いました。

どっしりとした体格。
太い声。
口元にたくわえられた立派なヒゲ・・・。

もちろん企画の内容が大事ですが、
プレゼンには見た目も大事。

あるデータによると、
人が相手の印象を決めるのに、
「会話」が占める割合は、たった7%だとか。
なんと、大部分が声や外見だそうです。

結局、この時のプレゼンは、
勝ち取ることができたのですが、
見た目で損はしたくないものです。

身近な真理。

昔、務めていた会社の社長が、
「この仕事は、気を使ってなんぼだ」と、
言っていたのを最近よく思い出します。

そういえば、
広告の基本は、
発信する相手を心地よくすること。

想定はできても、
名前もわからない、どこかの誰かを相手に、
あの手この手を使って、コミュニケーションを図る。

そんなことを毎日行っているわけですから、
当然、身近にいる人を心地よくするのは、
お手の物でなくてはならないんだと思います。

しかし、なかなかそうはいかないのが、現実。

家族、恋人、友人、知人、同僚、上司。
よく知っている間柄である彼らが相手でも、
(いや、彼らが相手だからこそ?)
常に心地よくさせるのは、難しいことです。

もし、解決方法があるとすれば
それはきっと、

気を使うこと。

大切なことは、身近にある。
ふとそう思った今日この頃です。